5月16日2007/05/17 02:18

 我ながらどうしたんだ、水曜まで更新だよ。いや久しぶりだ。ま、それじゃあいかんのだけどね。別にPOG本研究がまとまったワケではない。これは今も継続中。他に「軽く」書きたくなったことがあるので。題して「雑誌記事とブログとの違い」。
 
 世にブログを書いてる奴は山ほどいる。私もその1人だし、他にも山ほど知っている。ブロガーの中には雑誌などにも書いている「プロ」もいるようだけど、大半はシロウトだ。このエネルギーを雑誌に活用できるか…って部分はさておいて、「どこが違うのか」を私なりに少し考えてみたい。
 
 私に言わせると、プロってのはまず「それでメシ食ってる奴」である。上手い下手だの、意識がどうこうだのって話はその次以降でしょ。中には「本業とは言い難い」って連中も含まれるとは思うけど、ある程度まとまったゼニになっているかどうかは重要な要素ではないかね?
 
 こんなことを書くと、「メシ食ってるだけの連中より、面白いモノ書けるシロウトの方が…」とか言われそうだ。まあ、言いたいことは私にもわかる。実のところ「面白いかどうか」だけを中心に考えるのなら、プロの作品にこだわる必要はないと思うな。この辺は同人誌だのマンガ雑誌増刊号(投稿作品の割合が多い)だのを愛好し、香港馬に関する記述で致命的なミスやらかしやがった某スポーツ新聞を未だ許してないような私だけに、まあ一定の説得力(大したことないけど)はあるんでないかと。
 
 それでもねえ。シロウトが「かなわねえ」って部分はある。分量と安定感だ。こればっかりはシロウトだとちょっと…そして、この2つを生み出す原動力は「作品を生み出すためにかけた絶対時間の多さ」であり、それを生み出してるのは「それでメシ食ってる」って事実でしょ。だから、まず「それでメシ食ってる奴」と、「そうじゃない奴」に分ける必要があり、前者をプロ、後者をシロウトと呼ぶんではないかと。
 
 私は安定感についてはともかく、分量については少し(だけ)語る資格があるかな。なにせこのブログ、更新1回ごとの文章量は多いから。グダグダと長いだけで実はまるで入っていない気がするけど、それは今は問うまい。更新頻度はやや低いけど、それでも1ヶ月あたりの文章生産量は、ブロガーの中では多めになるんじゃないかなあ。
 
 けれどだ。そんな私でも、プロの文章生産量にはとても追いつかない。いや一部の作家に滅茶苦茶生産性が低い奴がいるのはわかるけど、そんなものと比べたって仕方ないでしょ(苦笑)。シロウトの限界はせいぜい「私と同じ分量を毎日更新」ぐらいではなかろーか。それではプロとしてやっていけないと思いますね。
 
 安定感も、実は結局「使える時間の問題」が大きいと思う。ぱっとネタを思いつくだけなら、プロもシロウトもさほど大差ないと仮定しよう。けど、それをふくらませたり、裏付けとなるデータ集めたり、細部を推敲したり…といった作業に使える時間が異なれば、色々と違ってきて当然でしょ。ある程度は効率で埋め合わせることができたとしても、ある程度経費・道具・ノウハウにメリットがあるはずのプロ相手に、倍以上の効率を叩き出すのが簡単なことかね?
 
 「だってシロウトなんだから、仕方ないじゃないか!」と言われたら、それまでだ。確かに仕方ない。もっとも、これはイコール「だからプロはスゴい」と認めてるのと同義語だね。むしろ問題は「分量と安定感って、そんなに大事なのか」ってことかな。これについては、「私は大事だと思っている」としか言えない。言葉では、これ以上の反論はできないのだ。
 
 その代わりと言っては何だけど、このブログは「分量と安定感」を比較的大事にしている。更新するからにはある程度の分量が欲しいし、安定して「突っ走った」ことを書いていきたい。けど、シロウトがコレをやろうと思ったら「何か」が犠牲になる。私はそこで「扱うネタを固定しない」って手を使うことにした。そんでもって、書きたいことをとにかく書きまくる。この際、読者は置き去りにしてOK。それがここである。だから、ここに義理以外の理由で出入りしていただいてる方には、「分量と安定感は大事でしょ」って主張にある程度賛同してもらえるのでは。
 
 もちろん、私は「分量少ない更新」をケナしているわけではない。その価値は多いに認める。要点を押さえた簡潔でまとまりの良いブログを読むと、心底「かなわんなあ」と思うし。ただ、そういうものにも欠点はあると思う。「本当はもっと深く掘り下げてもらいたいけど…」と感じることはあるからね。ブログに話を限定するなら、要は何を重視してどう運営してゆくかの問題だ。優劣の問題とは完全に別でしょ。
 
 ただ…「形になって残るモノ」のことを考えたら、ある程度の分量は必要不可欠でしょ。「短歌や俳句はどーなるんだ」って話はあると思うけど、それはまた別次元の問題ではないかと。少ない量でなおかつ形として残す価値があるモノを創るのは、それこそ天才の領域の話では。世の中にそんな奴がゴロゴロしてるワケがないので、やはり分量は大事だと思うぞ。つーか、凡才は分量で勝負すべきでは(笑)。
 
 分量が増えれば安定感も必要だ。そりゃそーだ。安定感がないのに分量増やすと、アラが目立つからね。そんでもって、分量と安定感を求めると、投入できる時間は無視できない…どころか、最重要問題でしょ。才能も大事かもしれない。けど努力とは費やした時間であり、いつの世でも尊い。こんなのは当然でしょ。そして…身も蓋もない言い方だけど、費やせる時間ってのは「余裕もしくは生活」だ。だから、それを生活にしてるから費やせる時間が多いプロはスゴい。
 
 何事にも軽薄短小がもてはやされる時代ではあるけど、重厚長大なものが持つ「迫力」は無視できないと思う。私が思うに、文章もしかり。増えすぎるとそれはそれで問題が生じるのは事実だけど、「せめてこれぐらいは…」ってラインだとか、「多ければ多いほどいい」って意識を持つべき局面はあってもいいのでは?これはメディアの持つ性質によって変わってくるはずだけど、それはブログと雑誌に思いっきり当てはまるような。
 
 ブログの盛り上がりを受けて、「このパワーを雑誌に活用できないか」ってアイデアを目にすることがある。けど、ブロガーとライターの間には厚い壁があるのではないかな。その壁を意識しないでブロガーを雑誌に登場させても、うまくいかないと思う。安易に「オレなら何とかなるはず」ってテングになるのは、絶対ポジティブシンキングじゃねえ。
 
 だけどだ。ブロガーがライターに挑むのが無価値とは思わない。壁は厚くて簡単に乗り越えられるモノじゃないけど、挑まなければ突破できないのもまた事実。壁の厚さ・敵の強さ・自分の無力さを知った上で、「それでも何とかする!」って気持ちを持たなきゃダメなんだよ。ま、これが一番難しいんだけどね。「外国に挑戦なんてするだけ無駄。違いが大きすぎて勝てるはずがないから」と著書で明言した故戸山調教師の管理馬だったくせに、香港で勝ったからこそフジヤマケンザンは偉大なのだよ。あれと同じコトが簡単にできるとでも?
 
 もっとも、「そのためにはどーすりゃいいんだ」なんてコトを聞かれても困る。最初にちゃんと「このエネルギーを雑誌に活用できるか…って部分はさておいて」って書いたでしょ(笑)。そこが語れるんなら、とっくの昔に実践してるっての。このところ同人誌さえロクに作ってないのに…ブツブツ。

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