10月29日2009/10/30 03:44

 菊池君は外したか…でも、社会人左腕を競合ナシで指名できたのは大きいかな。近大の荒木君を3位で指名できたのも大きい。とりあえず現時点では合格点だけど、肝心なのはこれから。オープン戦が始まる頃まで「誰が先発候補なのか」で悩まされそうだ。ふう…
 
 本日の話題は、「クルマが売れないのはゲームのせいかもしれない」としよう。ちょっと前にトヨタの幹部?がそう発言したらしいので。世間一般じゃ「そんなワケねーだろ!」って反論が渦巻いているので、あえてここでは「私なりの思考に基づき」肯定してみる。色は、迷ったけどコッチで。
 
 普通に考えたら、最近の若者がクルマを買わないのは、ゲームのせいじゃない。経済状況だとか、ナンパの手段としての地位低下とか、各種交通機関や店舗の整備とか…といったモノの方が大きそうだ。「ゲームのせいにするな」という意見はもっともだ。
 
 ただ、こういう意見を単に「アホらしい」で片付けるのは、ちょっともったいないと思う。明るいか暗いかはともかく、「クルマの将来」「ゲームの将来」なるものを考えた場合、実は鋭い指摘なのかもしれないからね。アホな発言をやらかした奴の全てではないけど、ごくごく一部は「未来を正確に予見していた」場合もあるのだから。
 
 クルマ全体の売り上げから考えた場合、ゲームはクルマの売れ行きを左右しない。そもそも用途が違いすぎる。クルマは移動手段であり、ゲーム機はどう頑張っても移動手段ではない。いわゆる「ネット越しの付き合い」が重視される用になった今、相対的に移動手段の地位は低下しているワケだけど、それでもリアルな移動手段の必要性は消えたワケじゃない。それゆえ、「アホらしい」で片付けたところで、大きく間違っているとは思えない。
 
 ただ…クルマって単なる移動手段なのか?と聞かれれば、多分そうじゃない。従来クルマに対しては、「ステイタスシンボル」とか「ロマン」みたいなモノもセットで語られてきた。考えてみて欲しい。道具としてみた場合、「移動手段」だということは、鉄道もクルマも同じだ。でも、電車にロマンだの何だのを感じる奴は「鉄」として特別な扱いを受ける(少なくとも受けていた)のに対し、クルマについて「ステイタスシンボルとして…」だの、「ロマンが…」だのといったことは、むしろフツーに語られてきた。もちろん、電車はクルマと違って個人所有できない(これは地味に大きいと思う)分、思い入れを投入しにくい。ただ、それを考慮に入れてすら、今まで「大きな差があった」のは事実だ。
 
 そういった「クルマに対する思い入れ」の1つに、「娯楽としてのクルマ」があったのは間違いない。ドライブに出かけるとか、「峠を攻める」なんてのが代表的だけど、単に「いいクルマを見せびらかす」なんてのも立派な「娯楽」だな。つまりだ。クルマを持つって言うのは、立派な「娯楽」の1つであり、映画・TV・本などと同様、ゲーム機も「ある意味では商売敵」だったと考えることが出来る。
 
 単なる移動手段として考えた場合、クルマってのは相当贅沢に出来ている。「商用車」と「自家用車」の車種の差を考えて欲しい。「単なる移動手段」なら、車種なんて商用車並みで事足りるはずだ。それをしないのは、色んな意味で「それ以外の付加価値」をつけているから。消費者がソレを欲し、自動車メーカーがそういう要望をかきたてることに成功し続けてきた結果として、今の自動車界があるわけだ。
 
 クルマもゲームも確かに同じ娯楽かも知れないけど、どう考えても「別腹」じゃない?確かに。「全てを娯楽として考えて…」って視点はある意味重要かも知れないけれど、それは政治家とか官僚とかシンクタンクとかが「日本の娯楽産業の構造とは」なんて巨視的な分析をする上では重要かも知れないけれど、おそらく「自動車メーカーのお偉いさん」って段階で既に「そんな見方をするのはどうかと」って話だと思う。あくまで一般的に言えばね。
 
 そんな「関係なくもない」なんて話をされても…と決めつけるのは、早いと思う。私が思うに、1つ「密接にバッティングする」部分がある。そこに与える影響は、地味にデカいかもしれない。ゲーム機では、レースゲームが出来る。これは、地味にクルマと直接バッティングするのでは…今回私が言いたかったのは、コレである。
 
 おいおい、どんなにリアルって言ってもだなあ…という気持ちはわかる。わかるけど、考えてみて欲しい。F1マシンを運転できる奴なんて、この世にごくわずかしかいない。「ごく普通の奴」は、コーナー曲がった瞬間Gで失神する。まあ、トロトロ走らせるくらいならできるかもしれないけど。
 
 それを考えれば、実のところ「スポーツカーでドライブする」も、「ゲーム機でレースゲームを遊ぶ」も、F1を「疑似体験している」ことに違いはない。そして、「ドチラがよりF1マシンに近いのか」は、実はビミョーである。最近のゲームの場合、部分的には「クルマを運転する」より明らかに勝るから。少なくともエンジン音だけはゲームが勝るんじゃないかな。
 
 F1って日本じゃそんなに人気は…などと言ってはイケナイ。F1は「頂点」なので極端かも知れないけれど、「車を速く走らせたい」というロマンは、それなりに重要だ。コレを否定されたら、トヨタがF1マシン走らせている理由が否定されちゃう。けど、「クルマを速く走らせるなんて、ゲームの中でやればいいこと」などと思われたら?それが全てとは言わないけど、若者に「カッコイイ!オレも真似したい!」と思わせるためにやっているレース活動が、クルマの売り上げでなくゲームの売り上げに貢献しているだけ…となったら、自動車メーカーは辛い。
 
 かといって、自動車界としてレース活動を中止するわけにもいかない。「クルマを速く運転したい」というロマンは、今でもクルマを売るための重要な宣伝手段だ。コレを否定しだしたら、デフレスパイラルが発生する可能性がある。クルマが「単なる移動手段」に成り下がり、クルマにロマンを感じる奴なんて「鉄」か、PC(個人所有物だってコトではクルマと一緒)にこだわりを持つ奴と同程度になっちゃうまで、「縮小の流れ」が続くことになりかねない。そうなれば、自動車メーカーの天下は終わりでしょ。
 
 今現在、ド真正面から「スポーツカーの運転なんて、しょせん疑似レース体験。それだったらゲームでイイ」なんて答える奴はいないと思う。ただ、昔だったら「多少背伸びしてでもクルマを手に入れた」奴の一部が、身の丈にあったゲームで我慢しているって例は結構多いのでは。単に「クルマかゲームか」という意識が芽生える前の段階で「コッチ」と選択しているので、正面切って選択迫られても「別の問題としか思えない」だけじゃないかと。
 
 まあ、クルマが売れない「主要因」は、どう考えてもゲームじゃない。でも、それを考えるのは私のやることじゃないだろうな。私はクルマ乗らない人だし。ただ、「クルマの魅力」の一部がゲームに食われているのは間違いないし、むしろソレが当たり前だってコトは忘れちゃイケナイと思うな。どちらも「可処分所得を何に使うか」って選択肢だからして。田舎じゃクルマは生活必需品だけど、「あくまで生活必需品。それ以上ではない」と思われたら自動車メーカーはアウトだから、結局は「可処分所得」うんぬんとして考えてもらう必要があるってコトは変わりない。
 
 それを考えると、実は「ゲームの発達がクルマが売れなくなった理由」だというのは、むしろマトモな現状認識なのかも。少なくとも、「他の業界がどうなろうとも、消費者がクルマに出すカネを惜しむワケがねえ」などと考えてるよりはマトモな意見じゃない?いずれにせよ「クルマが魅力的だと思ってもらえるには、どーすりゃいいのか」を考えなきゃイケナイことに変化はないんだけどね。
 
 しかしだねえ。私はクルマに乗らないけど、それだからこそ「クルマが魅力的じゃない」ってのは、ちょっと違和感があるのも事実なんだよね。多少は「羨ましいな」って気持ちはするから。たとえ「入手費用が1万円で、維持経費が月500円」であったとしてもクルマなんて乗らないと思うけど、そんな自分を「つまらん奴だ」と思うし。ゲームがどーのこーの言うのが重要かどうかはさておき、「クルマの魅力」って何なのか、もう一度しっかりと考え直してもらいたいな。結局大切なのはソコでしょ。

10月5日2009/10/06 00:10

 本日のネタは、食文化の話。何気ないニュースではあるんだけど、実はかな~り「深い」話だと思うので、珍しく採り上げてみました。
 
 話の詳細は、こちらを参照して下さい。要は最近よくある「食品偽装ネタ」の1つ。比内地鶏の卵と謳っておきながら、実際は普通の鶏卵が3割ほど混じっていた…というもの。ただ、興味深いのは、この「偽装」は良くある「経費削減」のためではなく、「味がくどい」という客の要望に応えるためやったと主張しているのがミソ。
 
 私は比内地鶏の卵の味なんて知らない。知っていたとしても、私の舌でどうこう語れるような違いがあるのかどうか、自信がない。ついでに言えば、味云々は「単なる言い訳」に過ぎず、実は経費削減・ボロ儲けが目的だった可能性は否定できない。それでも、ここではあえて「味に明確な違いがあり、私レベルでもソレはわかり、それが普通の鶏卵を混ぜた理由」だと仮定しよう。
 
 普通、客は「美味いもの」を求めている。比内地鶏の卵かどうかなんてのは、「美味いかどうかを事前に判断する材料」に過ぎず、「美味ければそれでOK」のはずだ。まあ体に悪いとかいう話でもない限り。そう考えれば、「味がくどい」という文句が現実に寄せられた「比内地鶏の卵100%の親子丼」は「せっかく改善した味を、また悪い方に戻す」だけのような。確かに、普通の鶏卵使っている以上、「誤解を与える可能性がある」のは事実だ。でも、ここで改善すべきは「キチンと比内地鶏の卵を使う」ではなく、「普通の鶏卵混ぜて、最適な味にしました」と訂正するコトじゃないの?って気はする。
 
 ただ、話はそう単純でもない。客の中には、一定割合で「美味いかどうか」より「比内地鶏の卵かどうか」が重要だって人間もいそうだから。美味いか不味いかは、実際食ってみないとわからない。味がくどかったとしても、「それがまたイイ」と思う客だっているはずだ。その辺を判断するためには、どこかで「比内地鶏の卵の味は、こんな感じです」と識別できる機会を設ける必要がある。アンテナショップってのは「それを判断するための場所である」と考えれば、あえて不評を承知の上で「比内地鶏の卵」にこだわる価値があるかもしれない。
 
 とはいえ…こう言っては悪いけど、秋田県の「県食彩あきた推進室」とやらが、そこまで考え、ポリシーとして「比内地鶏を使うべきだ」と考えたのかどうかは、正直わからない。単に「普通の卵混ぜたのでは、宣伝文句にならない」とだけ考え、味よりも宣伝文句を優先させた結果としてこの決断に至ったとしても不思議はないし、むしろ自然だって話はある。味は実際食わないとわからないけど、「宣伝文句」は視覚・聴覚という「味より手軽に流布させられる感覚使って訴えるモノ」なので、より強烈に効くと思われるからねえ。
 
 いや、ソコまで考えてすらいないかも知れない。「味を取るか宣伝文句を取るか」という決断は、容易に結論が出せるような問題じゃなさそうだ。そういう議論を展開するのは、色んな意味でかったるいのも事実。そこで、単純に「どちらが角が立たないか」を考えてゆくと…味を変えた場合、「県としてその味に責任もてるのか」って話になりかねないのに対し、比内地鶏の卵だけ使用すれば「そういうものなんだから仕方ない」と、いわば比内地鶏の卵の味そのものに責任転嫁できる。役人という人種(に限った話ではないと思うけど)がどちらを好むかは、言うに及ばずだ。
 
 もっとも、味を変えた業者側にも責任はある。現実に文句が寄せられ、それに対応したのなら、胸を張って「比内地鶏の卵100%はかえって良くない。だから改善しました」と主張すべきだ。客のためを考えれば、「責任回避の方向に動きがち」な県を説得するべきだし、そもそも最初から表示を変えさせるべきだった。そこまで踏み込むのはちょっと…という気持ちはわかるけど、その程度の改善でしかないのであれば、味を変える意味も薄いって話になる。
 
 「客にとってはどうあるべきなのか」も、ちょっと難しい。確かに、「味が劣ってしまう」は客にとって不利益だ。でも、「味のことだけ」考えた場合、別にこのアンテナショップでメシを食う必然性はない。あまり美味くないと感じたら、次は利用しないだけでいい。ド田舎じゃあるまいし、選択肢は山のようにある。それに対し、「比内地鶏を使っているモノにこだわる」のであれば、「この店は混ぜ物してあるので、別の店に行こう」と思っても、かなり難しい。都内ならばネットなどを使って調べまくれば見つかるかも知れないけれど、かなりの手間だろう。そーゆー手間を掛けないとすれば、秋田県まで足を伸ばすしかないのでは。これはこれで手間なのは言うまでもない。
 
 ただなあ…味の話をすると、日本の消費者の一部に「アタマで飯食っている」奴がいるような気がするのは確か。高級料亭で出てくるから・「いい食材使っているから」・○×100%だから・国内産だから…といった「知識優先」で、それが本当に味を良くしているのかどうかは気にもしない…というか、そもそも区別が付かない奴がいるんだよね。そーゆー連中にとっては、「味を良くするため、普通の鶏卵混ぜました」より、「比内地鶏の卵だけ使いました」の方が都合が良い。
 
 ついでに言えば、文章・言葉・映像といった、「本来味なんて伝えられない」メディアを使って味の話を展開する必要がある人間(要はマスコミだ)にとって、都合が良いのはどちらなのか。これは言うまでもない。そーゆー存在を一概に否定は出来ないけど、こうした存在が「アタマで飯を食う」人間を増大させてきたって側面は無視できない。
 
 今まで見てきたように、この話は「実はかなり複雑」であり、単純に「偽装した業者が悪い」で片付けるのはどうかと思う。それこそ「日本社会の食文化のあり方」にまで関わりかねない。私自身も「どう考えるべきなのか」って結論は出しかねているし、コレをお読みの皆様の意見も、各個人の食に対する信条によって相当割れるような。
 
 ただ、もしこの件に「悪い奴」がいるのだとしたら、私は偽装した業者よりも「県食彩あきた推進室」の方が悪いと言いたい。理由は単純。「味を取るか、謳い文句を取るか」という決断を強いられた場合、本来責任を取るのはこの部署だと思うので。ココが最初から「大切なのは味だ!お客様に喜んでもらってナンボだ!」って方針を持っていたのなら、「比内地鶏の味を完全に殺さない程度の改善」はむしろ歓迎すべきことで、変えるのは表示内容だって結論が速やかに出て、普通の鶏卵使い始めた時点で表示を変更しただろう。逆に「大切なのは謳い文句だ!それが比内地鶏の持ち味なんだから、味に文句付ける奴は放置しておけ!わかる奴はわかるはずだ」って方針があったのなら、そもそも「味に文句が出る」のはある意味想定内ってことになり、文句に対しても「調味料の改善なんかで対応できそうもない以上、放置しておけ」と調理側が判断して終わりになっていたはずだ。この件について、「今後は比内地鶏の卵だけ使う」とコメントしたのがこの部署である以上、「本来そうする責任があった」と認めたと見なせるでしょ。
 
 客ってのは本来、「食ってみるまで味はわからない」ものである。それだけに、せめて「誰がこの味にすると決めたのか」って責任は明確にしてもらいたいと思う。まあ、普通は店もしくはシェフがそうするんだけど。ただ、これを徹底すると責任問題が生じるし、ある意味もっとマズいことに「手柄問題」が生じるんだよね。日本社会は「とりあえず『皆さんのおかげです』と言っておけ」って社会だから、手柄が明確化するとそれはそれで気まずいからなあ。今回の件は、実はそれが大きな理由じゃないかって気がしますね。
 
 もっともだなあ。親子丼なんてもっと気軽に食うモノであり、比内地鶏がどうとかこうとかヌカすのは、「その時点で的外れ」って気がするのも事実かな。第一、私の舌じゃどーせわかんねーし(苦笑)。

7月13日2009/07/14 00:03

 諸般の事情により先週は気力不足で更新できず。すいません。色々私が悪いのさ…来年頑張らないと。
 
 本日のネタは、珍しく?麻雀ネタ。私の知っている戦術というか何と言うか…が、今も有効なのかどうか、少し気になる話があったので。
 
 キッカケはすご~く下らない。某麻雀マンガアニメにおいて、ある打ち筋がネット上で「どーなのよ!」と盛り上がった話を見たので。ちなみに私は原作の方で「その局面で何捨てたのか」知っていたんだけど。
 
 状況は結構単純。確か「競技麻雀の団体戦」の話。流石に細かいルール(実は重要なんだけど)は忘れた。リーチ一発・裏・赤は入っていたんじゃないかな。半荘勝負ではあった。ここで、早い順目にドラポンしてタンヤオドラ4のリャンシャンテン。でも、リーチがかかる。ここで一発目に西を引いてきた。相手の川はド真ん中ばっかりで、手の内にはリーチ者の現物1枚アリ。さて、何を切る?
 
 アニメ・漫画では現物切ってオリ、それが大正解。相手の待ちは西単騎(役は七対子)だった…というもの。これに対し、「あそこで西切らないなんて信じられない!」と騒いでいる奴がいたのだ。いやまあ、気持ちはわかることはわかるけど…とりあえず落ち着け。
 
 ちなみに、私だったらどーするかって?うーん…基本は突っ張ると思う。流石に点棒状況は考慮するけど、それ以外の理由では「全ツッパ」である程度勝負できるからね。「ヒマ潰し」としての麻雀だったら、この程度の戦い方で問題がないわけで。この場合、どんなド危険牌でも無視して捨てる。こんな戦術でも、「何を捨てれば和了りやすいか」の選択がある程度適切で、なおかつソコソコ運があれば勝てる。相手がシャレじゃ済まないくらい強くない限り。
 
 ただ、これはいわゆる「ゲーセン脱衣麻雀戦術」である。いわゆる脱衣麻雀って、ヘコんだ時の損失はまるで考える必要がない。よって、打ち込み恐れてオリる理由はほぼ皆無。あるのは、ただひたすらに「和了の速さ勝負」だ。コレはコレで「麻雀の勉強」にはなるんだけど、言ってみれば「粗い」打ち筋になる。もう数年以上そーゆー勝負してないけど、「相手が強い」「レートが高い」「とにかく負けたくない」って勝負だったら、もう少し丁寧に打つことを考えるね。もう相当忘れていると思うけど。
 
 この作品、実は「高校生の競技麻雀」勝負である。この時点で言いたいコトはいっぱいあるけど、それは放置しよう。よって、言ってみれば「とにかく負けたくない」勝負に該当する。ドカンと負けても「次で取り返してやる」って勝負じゃない。よって、「丁寧に打つ」価値が高めである。これは重要な話だね。フリーで勝負しているのとは、状況が違うのだ。
 
 さて、この状況で私はどう打つかって?うーん…ビミョーだけど、一応オリることも考慮する。だって、ドラ4あるとはいえリャンシャンテンだよ?確率計算とかしてみるとわかるんだけど、実は「好形イーシャンテンVS愚形テンパイ」だと、相当形に差がないとテンパイの方が有利だ。ましてリャンシャンテン、「この局は駄目」と判断しても、別に臆病とは思わない。しかも手は喰いタン・ドラ4。多少状況に左右されるけど、まあマンガンだろう。半荘勝負なら、マンガン程度で突っ張る価値があるかどうかは、ビミョーとしか言いようがない。
 
 そんでもって、オリると決めたのなら、まずは現物からってのがキホンでしょ。そりゃあね、世の中には「回す」って手もあり、この手を採用するのなら西切っても悪くない。でもなあ。あくまで私の好みに従えば、「リャンシャンテンの時にリーチかけられた」って理由でオリるのなら、ヘンに回すよりオリ優先でいいと思う。オリ優先なら、ド真ん中の現物から勝負でしょ。そんな牌、リーチ者には安全でも他の奴に対して安全とは限らない(回してゆくうちにそーゆー牌がアタリ牌になるなんて良くある話)けど、西は「通るのなら、後で切っても安全度は高い」んだから。特に、「オリ打ち」(オリてるのに放銃すること)を気にしない打ち手なら、こう考えるのがフツーだと思うんだけど。ついでに言うなら、1つ晒しただけで「オリたっていずれ捕まる」なんて言ってる奴は、もっと麻雀勉強しろ。苦しいのは事実だけど、まるで駄目ってコトはねーだろ。
 
 私は最近麻雀打ってないけど、麻雀マンガは比較的熱心に読んでいる。そのため、無意味に「戦術論」を知っている。最近の流行である「デジタル派」「オカルト派」についても多少は知っている。その観点から言えば、ここで「現物切り」は、「デジタル派ならアリ」ではないかと。デジタル派ってのは「ツキの流れなんて認めない」って思想に基づいているので、「テンパったらそこで最終形」「先手打たれたら、好形イーチャンテンでもオリることを考慮する」「オリ打ちを厭わない」(私が親しんだ常識に従えば、「ツキを落とす打ち筋」として嫌われていた)なんてコトを平然とやるんじゃないかと。そーゆー打ち手が強いのかどうかは対戦したことないのでわからんけど、理論面では納得がいく。
 
 ただ、私のこの意見、言ってみれば「勝つことより負けないことを優先した麻雀」用の理論である。この話は競技麻雀(高校生がカネかけられるワケねーだろ)であり、いわゆる「ウマ・オカ」の存在を考慮してさえ、おそらくは「負けない」打ち筋の有効度が増すはずだ。つまり、フリーで勝てる戦術とは限らない。
 
 仮に東風戦のフリーだったら…うーん、よくわかんないけど突っ張るのが正解かも。東風戦って短期決戦だから、マンガン級の手だけで「勝負決まった」って状況に持ち込みやすい。半荘勝負なら「マンガン級なんてそのうちまた…」って割り切りやすいだろうけど、東風戦でそんな悠長な考えが通用するかどうかは…そんでもって、ここで「西切りはあり得ない!」と主張している人間って、要はそんな感じのルールに慣れてる連中なんだろうなと思われる。
 
 麻雀ってのは実は色んなルールがあり、ホントに強い奴はルールによって多少打ち方を変えることが出来る。私の知人に「あえて色んなルールで打って雀力鍛える」なるコトやってた奴がいるので、それはよーく知っている。基本からしてブレてるようじゃ話にならないけど、基本フォームはしっかり保ちつつ、状況によって細部を変更できる奴って、ホントに強いからなあ。おかげで、私は一応「シャレじゃ済まないぐらい強い奴」は見分けることが出来る。そのため、そーゆー奴が本気でかかってきそうな時は逃げることが可能だ。余計な勝負根性出さない限りだけど。
 
 ただし、私は正直そこまで「応用力」は高くない。そもそもそんなに強くないし。よって、正直「赤入りの東風戦」では相当弱いと推定される。赤ナシの半荘勝負でさえそう強くなかったのに、対応力が低いと推定される赤入り東風戦でどーにかなるとは…よって、このルールだと「イキがってるだけのそこらのアンチャン」にも勝てないかもね。チャンと修行していれば何とかなったかもしれないけど、私は「ゲームはボードシミュレーション、ギャンブルは競馬」が基本と決めて久しいので、修行不足だから。ということは、「別にここで西切らなくてもイイでしょ」と言っている時点で、私は負け組確定なのかも知れない。
 
 でも、「ルール次第で打ち筋は変えるべき」ってのは的外れじゃないはずなので、これは覚えておく価値があると思うな。ソコは覚えて、「実際どーする」って部分は話半分に聞いていただければ、今回の話はある程度価値があるのではないかと。とりあえず、「絶対」西切りだとヌカしている奴は、少しだけでイイから考え直した方が良いと思うぞ。世の中には「リーチ一発チップ」がベラボーに高いルールだってあるんだから。

5月26日2009/05/27 02:26

 本日の話題は、土曜の続き。「さよなら、愛しき人」を読む活力を与えてもらうため、軍神閣下にカツ入れてもらったので、その話なんぞ。日曜の話をあえてボツにしたので、独立して語ることにしました。
 
 軍神こと鹿内殿は、言うまでもなくゲーマーとして名高い。この業界じゃあよく知られた方だ。とはいえ、当たり前だけど「ゲーム以外の」話もできる。「ハードボイルドを読んでいる」ってのは比較的知られた話じゃないかな。私も一応は英米中心に海外ミステリを読み、その流れでハードボイルドもある程度読んだことがあるので、つついてみたわけだ。
 
 鹿内殿は、私と違って結構丹念にハードボイルドを読んでいるらしい。以前「ロング・グッバイ」が出た時に「読みました?」と声をかけたことあるので、それはよく知っていた。明らかに私よりも「熱心な読者」です。私はあくまでミステリ読む「ついで」の読者だからして。
 
 とはいえ、私も一応「本の虫」の一匹。丹念に読んでないとはいえ、一応チャンドラーの長編は全部読んだことがある。本棚調べたら、「さらば愛しき人よ」以外全部あった。「さらば~」も読んだ記憶があるので、おそらくは買ってないのではなくどっか別のところにあるだけでしょ。
 
 「ロング・グッバイ」発売時に、私のように「タイトル見て挫折」するような甘い読者じゃないと確認していたので、やはり鹿内殿はこの本を読んでいた。そんでもって、コチラの予想通り「読まなきゃ駄目」とカツを入れていただいた(苦笑)。いや、反応は当然のように予想されていたんだけど、実際ガツンと言われると違うからなあ。もういい齢したオトナだってのに、目上からカツ入れてもらうってのはどうなのよ…とも思うけど、こーゆー先達がいるのは幸せなコトなので気にしない。
 
 鹿内殿はどうか知らないけど、私の場合、「レイモンド・チャンドラーの話題で盛り上がれる」なんて人は、他にあまりいない。ハードボイルド丹念に読んでる奴なんてそれなりにはいるはずだけど、案外探さないと見つからないからなあ。だから、鹿内殿にカツ入れてもらっているわけだ。
 
 ごく当たり前の話ではあるけど、カツを入れてもらうと言っても「読まなきゃ駄目なんだよ!」の一言で終わりではない。何故読まなきゃ駄目なのか、丹念に説明していただける。私自身もある程度はわかっているけど、やっぱりガツンと言われると違いますねえ。私も一応「チャンドラーを読む人」なので、説明抜きで「あのシーンの台詞がこうなっていて…」って話をされても、ついて行ける。それなりに説教のしがいがあったんじゃなかろーか。
 
 あげく、最後は「待っている」って短編の話に。この短編は創元社文庫から出てるチャンドラー短編集の表題になった作品なので、ドマイナーってワケじゃないけど、我ながら「何で読んでいたんだ」って気はする。この時の会話に「ついて行く」のは、そう易しい話じゃないような。ちょっとつついただけでそこまで話を持ってゆく鹿内殿も鹿内殿だし、それについて行く私も私である。ほとんどアルコール入ってない(鹿内殿がビール1杯くらい)のに。
 
 私はワケわからん趣味の固まりのような人間であり、「同好の士」なるものが「そばにいるのが当たり前」だとは思わない。ある程度探し回らないと見つからないんだな。それゆえ、「同好の士」を見つけた喜びってのはある程度知っている。鹿内殿の周囲に、「チャンドラーの短編『待っている』を説明抜きで語っても大丈夫な奴」がどの程度いるのかはわからないけど、流石にそれなりに貴重な存在になるんではと推測される。その意味では、喜んでもらえたんじゃないかなあ。
 
 私と鹿内殿は、基本的には「ゲームを通しての」知り合いである。だからって「ゲームの話しかしない」ってのは、色んな意味でもったいない。もちろんゲームの話もするけど、他に「あちらもこちらも喜ぶ」話題があるのなら、そーゆー話題を振ってみるのも大切ですね。人間関係ってのは、そうやって構築してゆくモノだと思います。
 
 しかし…やはり私は「まだまだ」だなあ。いくらミステリ読むついでとはいえ、ハメットとチャンドラーはそれなりに読んでいたつもりだったけど、改めて自分の「読み込み不足」を思い知らされちゃいました。青いね私も。仮にゲームで勝てたとしても、人間として軍神鹿内殿にはかなわないって気がします。これは鹿内殿が偉大だからであって、私が「初めて軍神を見かけた、ケツの青いコゾーの頃から進歩がない」からじゃないと思いたい…

5月22日2009/05/23 02:34

 5/19付「ゲーマーいちねんせい が ゆく」ってブログに、「(コマンド誌70号付録の『Ukraine'44』の)レビュー記事書いちゃった人はこちらまでどうぞ!(面白かったら)掲載するよ!」!」という、挑発的なコトが書いてあった。こういう挑発は買わなきゃ駄目だよね。とりあえず、テキトーに原稿書いて送りました。これぞ「見敵必戦」って奴ですな(違う)。
 
 本日の話題は、私が本屋である本を「手に取ることさえ出来なかった」話。なんか敗北感があるんだけど、何に対してそう感じるのか、自分でもよくわからなくて。
 
 私は海外ミステリを読む人である。古い作品も新しい作品も読む。でも、いわゆる「ハードボイルド」はどちらかと言えば苦手で、あんまり読んでない。それでも、ハメットとチャンドラーは流石に読む。特に、チャンドラーの長編は全部読んだ。そんなに数が多いわけではないし、入手しやすいからね。
 
 レイモンド・チャンドラーの訳と言えば、故清水俊二氏。その評価は高い。私も清水訳でチャンドラーを読んだ。しかし、「いくら名文とはいえ、流石に日本語が古い」ということで、最近村上春樹氏の新訳が出ている。「ロング・グッバイ」については、「ちらっと読んだけど…」って話をしたような。
 
 実は、その後も「読まなきゃ」と思っていながら、「ロング・グッバイ」完読は果たせてない。なんか、色々違うんだよね…時間がある時立ち読みしようとするんだけど、途中でやめちゃうんですよ。「それじゃ駄目なんだよ!」と、ハードボイルドに造詣の深い軍神鹿内殿から怒られたりしたんだけどねえ…
 
 そんな私のことだ。今度出た「Farewell, my Lovely」(あえて原題)の村上春樹訳も「読まなきゃ」リストに入れていた。けど、今度は手も出せない。一方で「読まなきゃ」と思いつつ、私の中の何かが手に取ることを拒絶しているのだ。本日も少し時間をかけたんだけど、結局手が出なかった。
 
 その理由は表題だ。清水訳では「さらば愛しき人よ」となっていたのが、村上訳では「さよなら、愛しい人」になっていた…この時点で、正直ゲンナリ。表題がコレじゃ、中身もちょっとついて行けないんじゃ…って気がして仕方ないんだな。
 
 そりゃあね、「さらば愛しき人よ」なんて、ちょっと古い日本語だなと私も思う。「最近の若い者」が「なんかぁ、ワケわかんねーっすけどぉ」などとヌカしても文句は言えないのかも知れない。ついでに言えば、最後の「よ」は、原題を忠実に訳すならつける必要がない。村上春樹氏が「そーゆーのはイカンよ」ってなことを考えたんじゃないかと思う。その意味では、正しいのは村上氏であって、私や清水氏ではないのだろう。
 
 けどねえ…正直、「何でこんなに軽いタイトルなんだ」と思っちゃったのは事実。倦怠期突入前のカップルが、帰宅する際にかける言葉みたいだ。そんな軽い言葉で済んじゃうような話じゃねーだろ。何と言うか、同じ作品に付けるタイトルとは思えない。
 
 特に気になったのは、やっぱり「さよなら」って言葉かな。「明日また会える」てな別れじゃないんだからさあ。もう少し重みのある言葉に出来なかったのかね?これなら、いっそのこと「あばよ」か「じゃあな」を使った方が適切だったような。これも古い言葉って気がするけど。
 
 「さらば」って言葉はいかにも文語調であり、日常的に使用する言葉じゃない。でも、あえてそういう「堅くて、古臭い言葉」が似合う状況ってのはあるんじゃないかな。「もののあはれ」に上手い現代語訳がないように、「さらば」って言葉も適切な現代語が存在しない言葉って気がする。「さらば宇宙戦艦ヤマト」を「さよなら宇宙戦艦ヤマト」に置き換えられるとでも?
 
 ついでに言うと、「愛しい人」ってのも…文語調の「愛しき」が古いのは事実だけど、それを言うなら「愛しい」ってのも時代がかってないか?素直に「愛する人」とした方が、違和感が少なかったような。正直、「指輪物語」のゴクリ(映画版ではガラム)を思い出してしまう…
 
 元々ハードボイルドってのは、より砕けた言葉で語った方が似合うジャンルだと思う。ハードボイルドの主人公で、一人称が「私」ってのは、むしろオカシイのでは。にもかかわらず、チャンドラー作品に限っては「私」を使うのが似合っていると言われる。これは清水俊二訳だからこそであって、それに及ばぬ凡才(悪いけど村上春樹氏含む)は「おれ」を使い、その他の表現も砕けたモノにした方が「らしさ」を出せるんじゃないかなあ。そう思います。
 
 7つあるチャンドラーの長編の中でも、「長いお別れ」と「さらば愛しき人よ」は特に人気のある2つだと思う。よって、まずこの2冊から訳し始めた気持ちはわからなくもないけど、私としては「コッチの思い入れも強いので、違和感を強く感じる」のも事実。残る作品はこの思い入れが多少緩和されるはずなので、その辺から徐々に慣らしていけば、村上春樹訳も読めるようになるかもしれない。けど…「ロング・グッバイ」は読めても、「さよなら、愛しい人」は駄目かも。「一番大事な部分でスベった」のは間違いないからね。日本語って難しいですなあ。
 
 なお、かく言う私の日本語能力は…(以下略)

4月24日2009/04/25 01:01

 D&Dの作者の1人である、デイビッド・ランス・アーンソンがお亡くなりだそうな。しみじみ。ゲイリー・ガイギャックスも昨年亡くなられたそうだし。疑いようもなくアナログゲーム界の大傑作を作ったコンビが世を去ってしまったのは、哀しいねえ…つーわけで、追悼として、あくまで私の知る範囲で「D&D」ってゲームを語ってみようかと。
 
 D&Dってのは、略称である。正式名称は「Dungeons&Dragons」。直訳すると「迷宮と竜」かな。テーブルトークRPGの元祖と言われている…んだけど、これはある意味正しくない。
 
 いやね、「最初のテーブルトークRPGって何か?」と聞かれたら、やはりこの作品の名を出すのが普通だし、それは間違っていないような。ただこのゲーム、最初っからRPGだったとは言い難い。最初は「冒険者集団を操るプレイヤーVS迷宮の怪物を操るプレイヤー」って図式の、ボードゲームの変形だったのだ。昔懐かしの「赤箱」ルールブックを丹念に読んだ経験がある人なら、これは納得してもらえると思う。
 
 ちなみにこの話題で赤箱と言えば、TSR(この色の話題に詳しい人にもおなじみ)から出た、基本セットのことを指す。新和って会社から日本語版が出た時、箱絵その他は英語版を完全に踏襲してたからねえ。私のような年代の人間にとっては、おなじみの呼び名だ。ただ、より若い層は富士見文庫版しか知らないし、「最近の若い者」になるとホビージャパン版しか知らないはずだ。しみじみ…
 
 D&Dが「真の意味でRPGになった」のは、青箱(エクスパンション)の頃からだろう。私の記憶が正しければ、この頃からやっと「テーブルトークRPGっぽい」ルールが増えてきたような。冒険の舞台も迷宮だけじゃなく、野外を含む「世界全体」に拡張されたわけだし。その後コンパニオン(緑箱)で領地経営の概念が、マスター(黒箱)でウエポンマスタリー(武器習熟)のルールが入って…最後のイモータルで「不死者への道」が説明されているんだったっけ?流石に記憶あやふやだなあ。
 
 今現在、このゲームの日本語版はホビージャパンから出ている。これまたしみじみしちゃう話だ。その昔、この会社が「D&D日本語版」を扱えなくて悔しがっていた時代を知っているからねえ。この会社、今現在なんかワケわからん方向に走っているけど、D&Dに関しては思ったより真面目に取り組んでいるような。やっぱり、「昔取り扱えなかった」恨み?は忘れてないのかな。
 
 今から思い返せば、D&Dってゲームは案外複雑なルールだった。魔法のルールなんてほとんど覚えていないんですけど(苦笑)。元々が「個人戦闘シミュレーションゲーム」に近いトコロから生じているからねえ。昨今のテーブルトークRPG事情はよくわからんけど、どうやらもっとシンプルなルールのものが好まれているような。まあ、それが「時代」なのかなと。他に娯楽が少ないからとはいえ、当時良くあれだけのルールを理解できたよな…って、より複雑なルールで有名なシミュレーションゲームを今でもやり続けているわけだけど。
 
 少し、私が「愛用した」キャラの話をしよう。私の愛用キャラは戦士だった。ルールあんまり覚えなくていいから…ってのもあるけど、むしろ「パーティー人数が少なくても何とかなるから」って事情が大きかった。コンシュ-マーRPGしか知らない人間でもわかると思うけど、魔法使いだの盗賊だのは、あまりに打たれ弱いので、「生きた壁」(戦士などのこと)抜きだと使いにくいからねえ。その点戦士ならば、「ザコ相手に大騒ぎ」って事態に陥ることは少ないので、話を進めやすかったのだ。
 
 ただまあ、いわゆる「ボスキャラ」相手にそれでいいのかと問われると…真っ向勝負じゃ厳しいので、色々小賢しい知恵を振り絞って何とかした(苦笑)。ボスキャラクラスなら「話をする」余地はあるのがフツーだし、必要ならば奇襲・不意打ち・待ち伏せといった「卑怯技」を使うまで。「いかに格好良く勝つか」なんて概念は皆無に等しく、「いかに楽して勝つか」を追求しまくったもの。この辺、「根がウォーゲーマー」ってことなのかもね(違う)。ただまあ、当時の私が「テーブルトークRPGってのは、戦闘を中心とした個人生活のシミュレーション」だと公言してたのは事実かな。
 
 今現在私はこのゲームをプレイしてない。個人的には「完全に足を洗った」つもりはないんだけど、とりあえず積極的にプレイ相手を探す気になれないし、誘ってくる人間もいない。その理由?やっぱり「人間関係がウザい」からかなあ。ウォーゲームの場合、多少プレイスタイルが違っていても、とりあえず「勝利条件を満たそうと努力する」って部分は共通しているのが普通(「そうじゃない」プレイをする場合、相手の同意を得るのが礼儀だと思う)なので、技量にかなりの格差がない限りは「人間性に問題がなければプレイ相手として問題はない」となる。けど、テーブルトークRPGの場合は「人間性に問題がない、あるいは少ない奴でも、プレイスタイルが合わないと一緒にプレイしていて辛い」場合があるからねえ。正直、見ず知らずの人間相手に飛び込んで…ってコトがやりにくいんだな。あくまで私に限った話かも知れないけれど。
 
 D&Dってゲームについては、このゲームそのものよりも、「後の世に残した影響」が語られることが多い。まあ、要はコンシューマーRPGってのはD&Dに影響を受けて生まれたようなものだからね。一般人に理解可能なトコロに話をまとめようとすると、そう語った方が話が早い。でもまあ、ココはそーゆー場所じゃないので、D&Dそのものについて語ってみたわけだ。昔は良くプレイしたし、今も機会があったらプレイしたいとは思う。けど、相手を見つけるのはウォーゲーム以上にタイヘンな気がするんだよね。それは正直ちょっとだけ寂しいかな。ある意味「忘れていた寂しさ」ではあるんだけど、哀しいニュースのおかげでちょっぴり思い出してしまいました。しみじみ…

3月16日2009/03/17 00:45

 ゲームの話題が続きすぎるのは何なので、昨日の話や「武田騎馬軍団」ルールブックの話はまた後日。本日の話題もゲームと言えばゲームだけど、少し別系統の話を。よって、色はコレで。
 
 今週末~来週アタマにかけて、私にはある「ミッション」が下されている。本屋にて「あるもの」を入手しなければならないのだ。それは、Gallop別冊「先取りPOG」…ではない。いやこの本も多分買うけど、別に「ミッション」扱いするほどのモノじゃないでしょ。もっと入手が困難そうなモノだ。「ウォーゲーム日本史」第1号である。
 
 「ウォーゲーム日本史」は、コマンドマガジンの姉妹誌となる、ゲーム雑誌である。これだけなら、この色の話題でどうこう語って終わりだ。単に入手するだけなら、「確実に入手できそうな店」は何件か知っている。私が目指しているのは、より一般的な「本屋」にて、この雑誌を入手することだ。
 
 フツーに考えるなら、「本屋で売っているようなモノじゃない」で終わりだ。しかし、発行元である国際通信社からの情報によると、一応は「一般流通」させるよう、働きかけているのだとか。ならば、あえて「ウォーゲーム雑誌を売ってるとは考えもしなかった」店で入手してみたいじゃないか。そこでまあ、自分で自分にミッションを下したわけである。
 
 とはいえ、ノーヒントじゃ色々タイヘンだ。よって、一応コマンド誌編集部に「どの辺で売っていそうか、ヒントをもらえますか?」って打診をしてみた。しかしだねえ…教えていただいた「この辺なら売っていそう」って店は、残念ながら私の要望を満たしてない。まあ、他に返事のしようがなかったとは思うけど…
 
 紹介してもらった店1号は、書泉グランデ。ここでゲーム雑誌が…ってのはカンドーものではあるけれど、比較的近くにある、同じグループの書泉ブックマートに行けば「絶対入手できる」(コマンド誌も売っているし)からなあ…なんかサプライズが足らない。
 
 もう1件は、時代屋。歴史時代モノ専門の本屋である。こんなトコロでもウォーゲームが!…と言いたいところだけど、むしろ「今まで扱ってもらえなかったのかよ」って店のような。これまた私の「思いがけない場所で入手する」って欲求を満たす店とは言い難い。
 
 もちろん、こういった店で入手できるのは大きい。それは認める。けど、どうせなら「今までまるで考えもしなかった」店、世のウォーゲーマーが、「そーゆー」欲求を満たすために立ち寄るはずのない店で入手してみたいものだ。そこでまあ、一応は「より無謀な」探索プランを実行し、それが不調に終わった場合にのみ、これらの店を利用することにした。そうすれば、「ドコで売っていたのか」って調査報告も兼ねられるわけで。
 
 まず、無謀プランその1として、私の最寄りである「大宮駅周辺」で探す。地方都市としてはソコソコ大きいこの駅周辺、本屋の数は多い。それなりに大きい本屋を5件ほど漁ることができる。更に、駄目ならさいたま新都心&北与野周辺に拡大する。この近辺にも大きめの本屋があるはずなので。
 
 これに失敗した場合、まず池袋へ足を伸ばす。地味にジュンク堂池袋店に期待しているから。東京都内でも最大級の本屋だからねえ。あと、紀伊国屋、八重洲ブックセンター、丸善も「見ておきたい」店だ。東京都内でその規模の大きさを誇る本屋の実力とやらを、見せてもらう。
 
 これら全てで不調に終わった場合、秋葉原の書泉ブックタワーをチェックする。それでも駄目なら、隣に書泉ブックマートがあり、近くに書泉グランデがある三省堂をあたる。「確実に入手できそうなトコロ」に行くのは、これら全てのチェックが終わった後。いつ完了するのか、自分でもよくわからないけど。
 
 ソコまでやる価値があるのか?それは何とも。あくまで私の趣味としか言いようがない。「立ち読み大魔王」の私の目を逃れて、一般書店で流通している本・雑誌の存在なんて、あまり認めたくないのだ。「かなーり特殊な専門書」なら仕方ないけれど、それはコマンド誌も同じ。ウォーゲーム日本史がどう扱われ、どう流通しているのか調べようと思ったら、これら「図体のでかさをウリにしている」本屋の動向を見極めたいのだ。
 
 本当なら、私が「裏技」呼ばわりしている「注文しちゃう」って攻撃を行うべきだったかもしれない。そうすれば、ついでで置いてくれたかも知れないので。ウォーゲーム関連雑誌が一般的な本屋で立ち読みできるようになれば、多少なりとも販促効果はあると思われる。それを狙って「フツーの本屋でも扱ってもらえるよう、頑張った」と思われるのだから、アシストする価値はあったのかも知れない。けど、残念ながらそれは私の趣味じゃない。
 
 なお、ここをお読みの方々に一応の「調査依頼」はしておきたい。そーゆータイトルの雑誌を一般的な書店で見かけた場合、報告して欲しいのだ。どーせゲーマーの大半は「確実に売っているところ」または通販などで購入するんだろうけど、それが当たり前だってのはちょっと寂しいじゃないか。どーせ何ら報告されないとは思うけど、駄目で元々だ。
 
 今回のミッションは、あくまで私の趣味を満足させるためだけのものだ。「ウォーゲームの未来を考えた場合…」ってなコトも重要と言えば重要だけど、ある意味では「そんなことは知ったコトじゃない」のだ。立ち読み可能な場所に置いてある雑誌が、私の目をすり抜けることは許せない。そーゆー、しょーもない誇りを満足させるための調査である。それが、その昔とある巨大本屋(フツー立ち読みはスルーされる)で、「カンベンしてもらえますか」と言われた、私の義務なのだ(苦笑)。
 
 それゆえ、一応探してはみるけれど…どうなることやら。個人的な感触としては、多分「専門書籍」扱いされて、かなり例外的な店を除けば店頭に置かれないと思うけどね。ただ、「そんなものだ」と決めつけることは許されない。万が一ってコトは考えられるので。どうなるのかはよくわからないけど、とりあえず調査はしてみます。お楽しみに?

1月25日2009/01/25 02:39

 風邪引いた…ので、ちょっとお休みしてました。まだ完治はしてないけど、かなり良くなったのでご安心下さい。
 
 本日の話題は、私が風邪引いた原因かもしれない「シミュレーションゲームは欧米で人気が低い」って発言について。あまりにも腹立たしい発言なので、詳細にツッコませてもらいます。読めば理由はわかると思いますが、基本的にはこの色の話題です。
 
 この発言はドコから出てきたのか?コトの始まりは「日本のゲーム(コンシューマー用)の世界シェアが低下中」ってニュース。何でも、世界全体で20%程度に落ち込んでいるんだとか。ファミコンやプレステ、現用機のWiiとPS3が日本製だってコト考えれば、かなり低下したんだなってのはわかる。わかるけど…ちなみに「世界に冠たる」日本車の世界シェアって、推定で30%くらいか?「元は日本語」って文化障壁と、欧米でのコンシューマーゲーム市場は急成長中だってコトも含めて考えれば、むしろこれぐらいがフツーだろって気がするんだけど。
 
 この話自体もツッコミどころ満載だけど、問題はその原因として「ゲーム業界に詳しい○○証券シニアアナリスト」なる人物が語ったモノ。理由その1として「得意としていたRPGやシミュレーションゲームは欧米で人気が低いこと」と発言しているのだ。まさに「寝込みたくなるような発言」ですな。
 
 ボードウォーシミュレーションなるモノを趣味として20年以上になるこの私だけど、コンシューマー&PCも含めて「日本がシミュレーションゲームを得意としていて、欧米よりも人気がある」なんて話は初めて聞いた。この業界が流行らない理由が「ボードによる対人対戦」って部分にだけ問題があるのなら、何も今までこんな苦労しなくても…そりゃあね、今まで我々ボードシミュレーションゲーマーは「とにかく業界を支える」コトだけに注意を向けてきて、外に向かって「シミュレーションゲームとは」って説明はほとんどやらなかったのは事実。だからって、これが世間一般の認識なんですか!正直、私は「何かに負けた」気がしますね。
 
 まずはそもそも論から。広い意味での「シミュレイションゲーム」って、どんなゲームだ?シミュレイションってのは、「模倣」って意味だ。つまり、何かを「真似ている」ものを指す。これだけだと、かなりのゲームが該当しちゃいますね。そこでフツーは、私がやっているような「ウォーシミュレーションゲーム」を指すコトが多い。
 
 ただまあ、PC・コンシューマー系のゲームにおいては、もう少し広い意味でこの用語を使っているコトが多い。ぶっちゃけた話、ある意味別のジャンルに属する「経営戦略モノ」「育成モノ」が含まれている。これらについては、少し詳しく解説しよう。なお、「フライトシミュレーター」は流石に別ジャンルでしょ。
 
 実のところ、大抵の日本人が「シミュレーションゲーム」と聞いて連想するのが、「経営戦略モノ」である。欧米じゃ「ストラテジー」(戦略って意味)ってジャンルに属しているのかな。ウォーシミュレーションゲームが比較的細部の再現まで目指しているのに対し、こちらはそういう部分はザックリしたモノに留め、より大きな部分(金や兵力の有無とか)を使ってどうこう…ってモノ。日本における代表作は「信長の野望」(光栄)シリーズかな。
 
 このストラテジーものの変形が「育成シミュレーション」かな。とにかく、何かを育てる過程をシミュレートしている奴。競走馬やスポーツチーム、アイドルや「フツーの女の子」、果ては巨大人型戦闘機械操縦者なんてモノまで育てるゲームがあったものだ。ちなみに、私も色々と育成してきた覚えが…特に、「綾○育成計画」には泣かされたものよ。生物としての出来の悪さはさておき、「キモいオッサンか根性ナシのクソガキにくれてやるのがイヤなら、自前で引き取れ」ってのは、今でも納得いかん…
 
 確かに「信長の野望」シリーズは売れた。育成シミュレーションも、それなりに数が出ている。けど、だからってこの分野は「日本ゲームの得意分野」なのかぁ?洋ゲーにはあまり詳しくないハズの私でさえ、「ポピュラス」「シヴィライゼーション」「エイジ・オブ・エンパイア」などなど、いっぱいあると思うんですが。そもそも、「シムシティ」に代表される「シムシリーズ」のシムって、多分「シミュレーション」の略だと思うんですが。まあ、強いて言うなら、欧米ではあまり「育成モノ」の話は聞かないぐらいだ。これはおそらく、欧米の方が「リアル指向が強め」だからだろう。向こうのスポーツ系経営ゲームって、「今いる地位を保つのに一生懸命」ってモノ(実はドコも大抵そうだ)が主体らしく、日本人みたいに「好きなチームを世界レベルに!」なんてバランスにはなってないようなので。
 
 それにだ。「純シミュレーションゲーム」「ストラテジーゲーム」「経営ゲーム」「育成ゲーム」に共通する要素として、「扱う対象は、親近感を得られやすいモノがいい」ってのがある。よって、フツーの日本人は「日本の○○」を扱ったゲームを好む。例外はいっぱいあるけどね。ただ、こーゆー作品をそのまんま海外に持って行ったって、ウケるワケがない。親近感が湧かないからだ。
 
 いや、コトは親近感以前の問題だ。サッカーチーム経営ゲームを考えてみよう。日本のJリーグのチームを「育ててみたい!」と感じるのは、まあ日本人と香港人(Jリーグもサッカーくじの対象なので)ぐらいである。サッカーがマイナーな米国人はさておき、英国人や仏国人なら自分の国のチーム育てようと思うでしょ。そもそも、チーム名知っているのかどうかさえ疑問だし。応用が利くモノも考えられるのは事実だけど、フツーは「文化の壁」がブ厚く立ちはだかる。単に「表記を全部英語にしました」だけで片付く問題じゃない。
 
 あくまで私個人の印象で語るなら、日本人言うところの「シミュレーションゲーム」が売れているのは、むしろ欧米の方ではないかと。どうも日本独特のモノらしい「育成シミュレーション」のことを考えに入れたとしてもだ。更に、システムが発達しているのも、どちらかと言えば欧米ではないかと。あくまで「全般的に言えば」だけどね。欧米モノは「扱っている題材が意味不明でも、プレイさえすればハマる」って領域に達しているモノがいくつかあるのに対し、国産は「題材がマイナーになると、プレイしてもらえない」ものが中心になっちゃうような。コンシューマーゲームなんてものは、個人や会社の情熱だけじゃあ回らないほどデカいカネが動く世界だけに、どーしてもある種の限界はある。日本のゲームメーカーも相当頑張ってはいるんだけど、やはり欧米に一日の長があると思うな。
 
 にもかかわらず、某証券会社のお偉いさんは「日本はシミュレーションゲームが得意」「でも、欧米では人気が低い」などと分析してみせたわけだ…なんか、私の意見と真逆なんですけど。間違っているのは私か?可能性はあるけどね。ただ、これでも私は一応「ゲーム好き」だ。ゲーム関連の知識にはかなーり接してきている。それが全部間違いだとは、とても…それよりかは、このお偉いさんが「日本で言うシミュレーションゲームって、欧米ではシミュレーションゲームに分類されないものが大半」って知識抜きで、日米の「ジャンル別ゲーム売り上げ」比較しただけ…って可能性が高いのでは。
 
 あくまで「私が思うに」だけど、このお偉いさんは「ゲームに詳しい」のではなく、単に「ゲーム業界の数字をよく見ている」だけって気がする。ゲームのことロクに知らないので、その数字が何を意味するのかも結局よくわかってないのでは。その程度の人間が、「ゲームに詳しい」人間として紹介されるなんて…先日紹介した「飲茶抜きで香港の食文化を語ろうとするミシュランガイド」に匹敵する、アホっぷりだ。
 
 問題はだ。こんなアホな分析しかできない人間が、証券会社のお偉いさんってコトだね。普通、ゲーム会社が「自社のゲームを海外で売りたい!」と思ったら、そのための資金が必要だ。資金だけじゃなく、向こうで売り込むためのコネとかも必要でしょ。そーゆーものを用意するのって、証券会社の大事な仕事の1つじゃなかったか?それを考えれば、なんか「海外で日本のゲームソフトが売れなくなってきている」のも、わかる気がしますね。ゲーム市場の分析すらロクにできない奴が偉そうな顔してる会社がサイフ握っているんじゃ、そうなるでしょ。
 
 まあ、我々「ゲーム好き」も、あまり偉そうなことは言えない。ゲーム自体には詳しくても、「ゲーム市場」がどうこうって話はできないからね。その意味では、この世界の動向を一般人相手に語れる人材を育成してこなかったって罪はあるような。その結果として痛い目を見るのは、ゲーム好きの方だろうからなあ。今からでも遅くないから、コンシューマーゲーム業界は色々考え直した方がいいんじゃない?まあ、ボードシミュレーションゲーム業界は、もはやそんな段階じゃないんだけど(苦笑)。

1月3日2009/01/03 22:35

 うーん…一部の記憶に自信がないので、世間一般に公表していいコトなのかどうか迷ったんだけど、モーレツに腹立たしかったのであえて書いちゃおう。ミシュランガイド香港・マカオ版に異議を発見しました。しかも、具体的な。
 
 何でそんなもの持っているのかって?香港に行ってきた知人に「買ってきてくれ」って頼んだから。香港で非難ごうごうって話を聞いたので、話のタネとして面白そうだったので。
 
 私は美食家ではないので、ミシュランガイド東京版はチンプンカンプンである。紹介されそうな店で食事したことないからねえ。実際立ち読みで店の名前だけ確認したけど、実際食ったことのある店は皆無。ま、「地元民」ってのはそんなモノじゃないかと。
 
 ただ…これは本来ヘンな話でもある。ミシュランガイドって、別に「美食家御用達」じゃないハズだからねえ。少なくとも、当初の理念(クルマで旅行中に立ち寄った先で、メシ食うためのガイド)からすれば、ソコソコのランクって店も紹介してあっておかしくない。多分、欧州以外の場所(最初はニューヨークだったっけ?)を紹介した時点で話がヘンな方向に行ってしまったと思われる。
 
 そういう、「存在意義・存在価値」に関するケチは、いくらでも言える。でも、まあ「ケチつけても仕方ないじゃん」って話題でもあるわけだ。そーゆーモノを有り難がる客がいて、そーゆーモノに紹介されるコトに意義を感じる店がある以上は。単に「私とは関係がない」モノだってコトに過ぎない。ミシュランガイド東京版ってのは、そーゆーモノだと決めつけていた。
 
 ただ…香港だと話が少しだけ別になる。私は香港在住じゃない。香港には観光客として行っている。そりゃあ競馬絡みでは、「地元の馬券マニアとドコが違うのか」我ながら考えちゃうような存在だったりするけど、チャンと観光客っぽいコトもしている。つまり、私にとっては東京版より香港・マカオ版の方が、ミシュランガイドのターゲットになっているわけだ。
 
 とはいえ、香港で高級レストランに行くかと聞かれたら…安くて美味いモノが大量に転がっている中、あえてカネ出す意義はドコに?香港は「ハズレを引く方が難しい」トコロだと思っているんだけどなあ。それでもあえてハズレを引きたければ…って店をいくつか知っているのは事実だけど(苦笑)。
 
 そんなワケで、どちらかと言えば「将来自分が香港に行く時の参考用」としておねだりしたハズなんだけど…1件、「確かこの店で食ったことがある」ってな店を見つけました。かなーり前に行った店なので、本当に同じ店かどうか自信はないんだけど。
 
 しかもだ。ご丁寧なことに、私はその店に「イマイチ」と駄目出ししている…これは私だけじゃなく、同行者もそう言っていた。いやね、不味かったワケじゃない。相当なランクではあった。でも、その前に「もっと美味い店」で似たようなモノを食べた関係上、こういう感想になったのだ。
 
 店の名前出しても意味はないので、場所とジャンルだけ出そう。ハッピーバレー競馬場の近くにある、飲茶の店である。「美味い店」って評判だ…ってんでいちいち出かけていき、食べたのだ。記憶が正しければ似たような位置にあったハズだし、店の入り口(ガイドに写真がある)に何となく記憶があるんですけど…記憶違いの可能性は否定できないけど、おそらくは「私が知っている店」だ。
 
 確かにね、あの店の飲茶は美味かった。フツーに考えたら、相当なレベルだと思う。でもでも、「もっと美味い飲茶を出す店」を知っているからねえ…あれから時が経っているので、ひょっとしたらもっと美味くなったのかもしれない。けど、私の知っているあの味じゃあ、「香港一」ってコトはあり得ない。少なくとも1件、「より上の飲茶」知っているからだ。
 
 ちなみに、私の知っている「より上の店」は、カケラも紹介してない。本業であるレストランの味が「紹介するに及ばず」ってコトだと思うけど。その店のレストランも食ったこともあるんだけど、確かに「傑出して美味かったのか」と聞かれると考えちゃう(充分美味かったけど)からなあ。もし飲茶の味も含めてそーゆー評価になったんだとしたら、「舌が壊れている」と言っちゃうけどね。コッチの味が落ちてないのは、何度か確認している。
 
 あきれたコトに、「飲茶」ってジャンルで紹介している店は、ココだけ。そりゃあね、実は飲茶専門店って、思ったよりは少ない(本業はレストランで、昼に飲茶って店が多い)関係上、そうなったのかも知れないけど…他のジャンルで(例えば「広東料理」)紹介しているモノもありそうではあるんだけど、区別はちょっと難しい。よって、私の舌や記憶がどうこうって話とは無関係に、ミシュランガイド香港・マカオ版は「飲茶の紹介がなってない」と断言していい。香港の食文化を飲茶抜きで語る?それって「和食抜きで東京の食文化を語る」のと同程度に無価値だと思うんですが。
 
 正直言おう。フツーに考えたら、香港・マカオ版と言えども、ミシュランガイドで紹介している店で食事なんかしない。高いんだもの。でも、飲茶なら多少話が異なる。香港の飲茶は、日本の「サービスランチ」と似たような位置づけでもあるので、私のような「バックパッカーに近い観光客」でも手が出る。本業は無理でも、飲茶なら…って期待も含めてガイド眺めているわけだ。にもかかわらず、「飲茶のことなんて知りません」って態度とられてもねえ。
 
 これは、マジにシャレじゃ済まない「欠陥」だと思う。香港へ観光に行く日本人に「何が楽しみですか?」って聞いて、「飲茶」が含まれない奴は、あんまりいないと思う。その紹介が全くもってなってないガイドブックですよ?調査員の舌がどうこうって問題じゃない。それ以前に、編集方針決めた奴のアタマが壊れているでしょ。役立たずとまでは言わないけれど、欠陥商品呼ばわりされても、文句は言えないと思うな。
 
 なお、香港のレストランで「昼は飲茶」って店は結構あるはずなんだけど、ミシュランを見ても「昼も普通の営業なのか、それとも飲茶なのか」は、さっぱりわかりません。つ、使えない…そーゆー営業している中華料理屋なんて、パリやロンドンにも転がっているハズなんだけど。何も他の都市の中華料理屋で「そーゆー営業しているかどうか」調べて掲載しろとは言わないけど、香港だけは対応して欲しかった…
 
 つーわけで、ミシュランガイド香港・マカオ版は駄目です。調査員の舌がどうこう以前の問題で。正直言って、まさかココまで駄目だとは思ってなかった。編集が香港の食文化を全く理解してません。私のような特殊な人間だけに留まらず、一般的な日本人観光客相手にも「ちょっと問題あり」って話になるのでは。
 
 まあ、編集のアタマについてはともかく、調査員の舌については、曖昧な記憶だけでどうこうってのは問題でしょ。そこで、機会があったら実地調査をやってもいいかなと。安い店なら。あえて3つ星店の飲茶確かめに行ってもいいんだけど、どうもアホみたいに値段が高いらしい。普通の食事ならともかく、飲茶でその値段はボッタクリじゃねえかって思うほど。ただまあ、その結果に関わらず、「ミシュランガイド香港・マカオ版」が実用書としては失格レベルであることは間違いない。「どの店の点心が美味いのか」さっぱりわからん香港食のガイドブックに、何の価値があると?

9月10日2008/09/11 01:01

 「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」(池谷祐二/講談社ブルーバックス)という本をパラ読みした。ぶっちゃけ言えば「英語は要は発音だ」として、正確な発音に近いカタカナに置き換えて覚えよう!ってもの。なるほどねえ。英語については私も思うところがあるので、少し語ってみようかと。
 
 私は多少英語を話せる…としておこう。学生時代の成績は「聞くな」ってレベルではあるんだけど、少なくとも1人で海外に短期間出かけて、無事戻って来る程度には話せる。学生時代の成績などに関わらず、「実践じゃからきし駄目」って人間が少なくないことを考えれば、多少話せると主張してもいいんじゃないかなあ。正直、難しいコトじゃない気がするんだけど。ただし、慣れさえすれば。
 
 英語習得最大の問題は、やはり「慣れ」だとは思う。高校卒業程度の英語力があれば、私のように「1人で海外に飛び出し、無事帰ってくる」ぐらいなら何とかなるはずなんだけど、だからってこれを実践するのは度胸がいる。でも、こうやって「活きた英語」使わないと、確かに「英語話せません」ってなるのは仕方ない気がする。
 
 あくまで私の見解で言えば、実は英語は発音じゃない。確かに、日本人の話す英語はヒドいと思う。私もLとRの発音は滅茶苦茶だし、他にも「ホントにこれでいいのかぁ?」って発音は山ほどあると思う。けど、だからどーした?世界には、「ヘンな発音の英語」なんて山ほどある。
 
 私が考える「最悪の英語」は、フランス人の話す英語。イントネーションやら発音(特にR)はまんま仏語で、単に使っている単語だけが英語って奴がゴロゴロしてる。おかげで、ぼんやり聞いていると仏語にしか聞こえない。日本語で言えば、外国人の話すカタコト日本語よりヒドいんじゃないかと思う。まあ、フランス人は「仏語最高!」と信じて疑ってない民族なので、アレでいいと思っているんじゃないかと(苦笑)。ちなみに、魔神ペリエはあれでもフランス人にしては「英語っぽい英語」を話す方。最近だとサルコジ首相がヒドかった。
 
 英語を母国語とする連中でも、発音は必ずしも一致しない。オーストラリア人(オージー)の英語はヒドいって聞くし。そもそも、実は英国人の英語と米国人の英語はかなーり違う。日本人が学校で教わるのは、おおむね米語だ。そのため、私は米国人の言ってることはわかる時があるんだけど、英国人になるとチンプンカンプン。代表例はJCや香港国際開催の時の調教コメント(笑)。
 
 香港人と英会話するのも厳しい。私は「日本語なまりの米国英語」を使い、向こうは「広東語なまりの英国英語」を使うからだろう。ただ、それでも頑張ればコミュニケーション可能だ。発音は重要だけど、どうもそれが全てってわけじゃなさそうだ。
 
 ちなみに、発音は英語で会話しまくっていると「伝染」する。この辺、たとえば東京モノが関西人と会話してると「関西弁が一部伝染する」のと変わらない。私は何故か「イエス」の代わりに「イヤァ」を使うというヘンなクセがあるんだけど、これはどっかで伝染したからだと思われる。私の英語は習い覚えた米国英語がベースだけど、多分他にも意味不明なクセが染みついているはずだ。でもまあ、通じる分にはそれでいいんだけど。
 
 私の考える「日本人が英語を苦手なわけ」は、発音でも文法でもない。それ以前の問題がデッカイと思う。説明不足だ。要は「言葉が足らない」から話からして通じていないのであって、英語がどうとかいう問題じゃないと思うんだな。
 
 私が英会話の際に心がけていることに、「常に理由を説明する」ってのがある。たとえばだ。「最寄りのバス停はドコですか?」(Where's the nearest bus stop?)と言うだけではなく、「駅へ行こうと思っているんですが、バス停はドコですか?」(I'd like to go to a station. Where's the nearest bus stop?)と言うようにしている。これは結構重要なことだと思っているんですが。
 
 こういう習慣を身につけようと思った動機は、実は単純なもの。こう聞くと「聞き返される」可能性が多少減るのだ。この可能性を減らせば、相手が「何て返事をしてくるのか」予想しやすくなる。そうすると、相手の言ってることが理解しやすくなるんだよ。英語で会話してて予想外の返事が返ってくると、やっぱりまごつくからねえ。
 
 この習慣は、自分が思っていた以上に効果があったと思う。「What?」って聞き返される回数が露骨に減ったのだ。理屈はわかるでしょ。あえてクドクド語ることにより、怪しい発音が一部あっても「コイツは何を言いたいのか、何をしてもらいたいのか」理解してもらいやすくなったのだ。言ってみれば、「質が駄目なら、量で勝負」ってわけだ。
 
 これは、正直言って「自力で気がつく」のは多少難しい気がする。私も当初そうだったんだけど、「英語は苦手だ」って思いがあると、つい「話す言葉を減らそう」と考えてしまう。でも、よく考えればこれは間違いだ。英語が苦手なら、その分「たくさん話す」よう努力すべきなのだ。そうすりゃあ「コイツの発音は滅茶苦茶だけど、かろうじてわかる単語から推理してゆくと、多分こう言いたいんだろう」とわかってもらいやすくなる。身振り手振りを加え、クドいくらい知ってる単語を並べて説明しまくれば、よほど複雑なことでもない限りわかってもらえるはず。でも、そこに気がつかない日本人は多いんじゃないかなあ。
 
 確かに、必要最小限の単語だけ並べて会話を成立させようと思ったら、正しい発音が欠かせない。それは事実だ。けど、実は会話ってモノは「相手の話す単語が意味不明でも、場合によっては何とかなっちゃう」のだ。事実、私は「英語も日本語もわかりません」って相手と会話する必要に迫られたことが何度かあったけど、その都度かろうじて何とかしてきた。大変だったけどね。それを考えれば、発音の正しさを気にするよりは、発音のことあまり気にせずしゃべりまくる方がいいような。
 
 なお、ヒアリングの場合もコツは一緒。わからなければ、とにかく色んな言葉を並べてもらう。一般市民ならともかく、ホテルマンなどは「わかるまで根気よく説明してくれる」はずだ。言葉1つ1つを追いかけるのではなく、「いったい何を言わんとしているのか」を掴むよう努力する。ビジネスなどの複雑な会話ならともかく、単なる観光旅行なら、「単語わかんなくてまるで話が通じない」なんてコトはないはずだ。
 
 「英語は度胸」というのは、真実だと思う。これは何も「的外れな過信を持つ」ことを意味しない。経験がないとわかりにくいかもしれないけど、「自分の話したことが通じない」って、すごーくキツい精神的打撃である。そこで腰が引けて話す言葉が少なくなると、余計話が通じない。間違いやら怪しげな発音は承知の上で、とにかく「わかってもらえるまで話しまくる」必要があるんだけど、これは結構度胸が必要だ。「間違えたらどうしよう」「わかってもらえなかったら大変だ」なんて気持ちを打ち破らないといけないからね。
 
 もっとも私の場合、海外旅行の目的はまず競馬であり、馬券さえ買えれば後はどうとでも…ってのが大きいと思われる。私の知る限り、馬体の良し悪しや調教診断なんて万国共通(当たり前だ)だからねえ。競馬新聞が意味不明で、走っている馬を一度も見たことなくても、予想は出来る。競馬場の見つけ方?これは「馬券オヤジ」を見つけて尾行すればOK。実は言葉が通じなくてもかなり何とかなるんだな。それがわかっているだけに、開き直りしやすかったのが「勝因」だろう。つーわけで、競馬目的で海外に行くのは大いにオススメしたいですね!(おい)