7月1日2006/07/02 02:33

 昨日はW杯に見入ってしまいました。本日もブラジル戦からそうする予定。ちなみにイングランド-ポルトガル戦はラジオ観戦中(笑)。
 
 ドイツ-アルゼンチン戦も面白かったけど、私の好みはイタリア-ウクライナ戦かなあ。あれを「つまらん」という人間が多いのはわかるけど、学ぶべきことは多い。
 
 アズーリを見て感心するのは、何と言ってもカテナチオ…ではない。ましてや攻撃陣の華麗さでもない。全体的な試合運びの巧みさである。どんなサッカーを展開するにしろ、これは参考になるんではないかと。
 
 どの辺が巧みなのか?そりゃもう、何と言っても「相手の心の隙」を的確に突いてくるトコロである。特にウクライナ戦の3点目なんざ、鳥肌立ちましたね。ただでさえ守備の堅いアズーリが「守備固め」した直後。相手が攻撃に気を取られている隙を見逃してなかった。イタリア寄りで観戦してる私でさえ、守備に意識がいってたのに。「したたか」とはこのことだね。
 
 サッカーとは本来、攻撃と防御の境目がさほどはっきりしてない球技である。野球と比べりゃわかるでしょ。にもかかわらず、誰もが「攻撃」「防御」を別物として考える。そりゃあ間違いじゃないけど、そこには「わかりやすい二元論に惹かれる気持ち」があるってことは、覚えておく価値があるのでは。
 
 攻撃と防御の境目が曖昧ってコトは、「攻撃は最大の防御」ってことである。ボール支配して前線に張り付いている間は、絶対に点取られないワケだから。サッカーで「攻撃偏重のチーム」が好まれる理由でもある。ついでに言えば、ここまでは私のような「凡人」にも理解可能だし。
 
 問題はこの次。攻撃と防御の境目が曖昧ってコトは、「攻撃が最大の防御」であるのと同様、「防御は最大の攻撃」でもあるはず。でも、これは理解するのがとてーも難しい。1つ間違えば「ただ耐えているだけでジリ貧」になりがちだからねえ。「防御は最大の攻撃」って考えは間違いだと思いたくもなる。
 
 でも、考えてみて欲しい。サッカーで「攻める」ことは、相当リスクが高い行動である。とにかく点が入らない競技なんだから。手という「器用な部位」に使用制限がある以上、黙っていても相手が勝手に失敗する可能性は高い。そこに大きな逆襲のチャンスが潜んでいる。物理的にも、心理的にもだ。
 
 よくサッカー解説者が使う言葉に、「シュートで終わりたい」ってのがある。シュートで終われば大抵次は相手ゴールキックであり、プレイがそこで切れるからね。そうすりゃ守備への切り替えもスムーズに進む。ただ、これは物理効果(歩いてポジションに戻れる)も無視できないけど、むしろ心理効果が大きいんじゃないかな。
 
 心理面を考えてみると、「対応」中心の守備より、自分で能動的に何かする攻撃の方が負担が大きい。この負担は「切り替えの早さ」って形で現れるように思う。防御から「さあ攻撃だ」と切り替える方が、攻撃から「さあ防御だ」って切り替えるより楽ってコトだね。ここに「心の隙」があるわけだ。そこを突けるわけだから、実は「防御は最大の攻撃」って考えも成り立つのでは。
 
 とまあ、理屈でこんなものをひねり出すのは簡単だけど、実際は…正直言いましょう。ウクライナ戦の2点目でさえ、相手の攻撃しのいで「ふう」とか思った「隙」に点が入ってました。ましてや3点目に至っては。ピッチに立つアズーリにしてみれば、私なんて「心理的に隙だらけ」なんでしょ。ソコが治らない限り、私にペレやマラドーナ級の技術があったとしても、アズーリの前じゃ赤子同然じゃなかろーか。