7月25日2009/07/25 23:07

 「しゅみのしみゅれーしょんげーむ」というブログの中で、プロデザイナーから「誰がプレイしても同じになる選択肢は排除しましょう。」「失敗するとゲームが崩壊するオプションは排除しましょう。」ってなアドバイスが寄せられた…という話があった。うんうん、わかる。わかるけど…個人的見解としては「取り扱い要注意」って性質のアドバイスかなと思ったので、ここで長々語ってみようかと。
 
 「誰がプレイしても同じになる選択肢は排除しましょう。」ってのは、要は「選択の余地がないのなら、選択肢でなく必然にしてあげた方が親切だ。」ってことだと思われる。片方が選択されないのであれば、「選択肢」である必然性が薄い。にもかかわらず、そこに選択の余地がある以上、ある程度は「この道を選ぶとどうなるのか」検討する必要がある。これは「結果としては無駄な思考」だ。こういうものは、可能な限り排除してあげた方がプレイヤーにとって親切である。特に初心者にとっては。
 
 ただ…実際問題として考えてゆくと、「とにかく削り落としてしまえばいい」って話にはならないと思われる。理由その1は「結構プレイヤーの自由度を奪いかねないから」かな。一見冗長な選択肢に見えても、実は「それがあるからこそ、多彩な作戦を展開できる」ってモノは多いので。両立不能とは言わないけど、「やりすぎ」の可能性は(プレイヤーやデザイナー予備軍が思っているより)高いと思われるので。たとえとしては「日露戦争」(EP/CMJ)のセットアップ。作戦研究が進んだ今では、大半の人間が「全部1カ所にスタックさせて終わり」ってセットアップを選ぶと思うけど、「騎兵1部隊だけアサッテの方向に置いて、確実に逃がす」って手段を採用する人間もわずかながら残っている。改訂版を作る際にはこの点に注意が必要でしょ。もっとも、あのゲームを改訂しよう(ルール明確化は除く)なんて奴はいないと思うけどね。
 
 もう1つの問題は、「儀式として意味がある場合」かな。たとえばだ。私が原稿書いた「ヒトラー電撃戦」のポーランド戦。ハッキリ言って、これ自体に選択の余地はあまりない。「誰がプレイしても同じになる選択肢」として削除してもいいくらいだ。ただ、流石にそれは寂しいと思われる。先の長いゲームのオープニングセレモニーとして考えるなら、こーゆーものがあっても「害は小さく、益は大きい」だろう。なお、「ヒト電」におけるこの戦いは、「選択肢」としての意味は限りなく薄いけど、逆にそれがゆえに「戦術会得のチュートリアル」として便利な存在であり、私が喜んで長々と記事にしたって話もある。
 
 ついでに言うなら、第二次欧州大戦モノのポーランド戦は、「それ自体は選択肢とは言い難いけど、付随するモノに重要な選択肢が含まれている」戦いでもある。どーゆーことかって?確かにポーランド戦そのものは「独軍が速やかに勝つ」戦いであり、選択もへったくれもない。でも、「その裏で連合軍が何をするのか」とか、「ポーランド占領後の独軍の動き」ってな部分になると、選択の余地が出てくる。「ヒト電」の場合、第1ターンの連合軍が何をするのかは地味に重要であり、「ノルウェイに手を出す」「英の大陸派遣軍を増強する/引き抜く」「特別動かない」「独に逆侵攻する」などといった選択肢がある。これらはポーランド戦を省略しても選択させることが出来るけど、中途半端な形で盛り込むよりは「独に選択肢とは言い難いポーランド戦をやらせ、その裏で連合軍に選択肢を選ばせる」って形にした方が、かえってわかりやすいと思われる。
 
 「失敗するとゲームが崩壊する選択肢は、排除しましょう。」ってのは、上記とほぼ同義語である。要は「失敗するとゲームが壊れるので、結果として誰がプレイしても同じ選択をする→だったら排除する」って方向に誘導することになるわけで。発見するための方向が違うだけで、排除する理由は同じと見なして良さそうだ。なお、たま~に「成功するとゲームが崩壊する選択肢」なるものがあったりするけど、コレも本来ならば排除すべきだろうね。
 
 ただ…実はコチラの場合、より排除が難しいと思われる。理由は簡単。「ゲームを崩壊させる選択肢だけ」排除することが難しい場合があるからだ。たとえばだ。どこぞの包囲している要塞都市のことを考えてみる。ここにいきなり強襲をかけると、失敗したらゲームが終わっちゃうとする。ただ、だからって強襲を禁止して良いとはならないでしょ。ルールにもよるけど、「包囲継続していればそのうち弱る」コトもあり得るのだから、その時点で攻撃すれば、失敗してもゲームが壊れるほどではないかもしれない。この辺のバランス調整?は決して楽じゃない。実のところ、「どんな確率でどの程度の部隊が吹っ飛んだら、ゲームが壊れたと見なすのか」は、プレイヤーの個性によってかなり差があると思われるし。
 
 この話を読んで真っ先に思い出したのは、昔読んだMacの記事。MacはUI(ユ-ザーインターフェイス。要は見た目や入力方法などの「使い方」)をデザインする際、意識的に「冗長な選択肢」を排除しているんだそうな。例としてあげられていたのが、「見ただけでは押せば開くのか、引けば開くのかわからないドア」だ。こーゆードアに「押す」「引く」という表示を付けるのが「親切設計」…ではない!押す側のドアには、引くことが出来ないよう取っ手を外してしまえばいい。そうすれば、パッと見ただけで、言葉がわからなくても「ドアを引く」馬鹿はいない。こういう思想が行き渡れば、引く側も「取っ手があるってコトは、引くんだな」とわかるようになる…ってものだ。Appleって会社の最も大きな企業価値が「洗練されたUI」にあるコトを考えれば、コレがどれだけ重要なのかわかると思う。
 
 こうやって余計な選択肢を排除すれば、「選択肢がある=どちらを選ぶかはプレイヤーの決断次第」となる。これは大抵の場合、ゲームデザイナーが「プレイヤーはこういう部分で悩んで欲しい」ってポイントと一致するだろう。これぞ典型的な「省略と誇張」って手法だ。余計な選択肢をバッサリ省略することにより、重要な選択肢を際だたせることが可能になるのだ。ゲームデザインをする上で「省略と誇張」がすごく重要だってコトは、鈴木銀一郎大佐だけでなく、こかど殿と私のタッグ(これとかこれを参照)でも指摘できることだ。
 
 かように、「余計な選択肢の排除」というのは大事である。様々な理由から「上手く取り除けない」場合が考えられるのだけど、だからってその価値は変わらない。後はこの原理原則と「取り除いてしまうとマズい理由」を天秤にかけ、どちらを重視すべきかデザイナーが決断してゆけばいい…というか、しなくちゃイケナイ。「アレもいらない、コレもいらない」といった感じで機械的に削り落とすのではなく、逆に「アレも必要、コレも必要」と盛り込むのでもなく、「何故そのような選択肢があるのか」をしっかり意識した上で、注意深く削ってゆく必要があるのだと思われる。私が冒頭で「取り扱い注意」だと言った理由がコレだ。原理原則をわきまえないで大ナタふるえばいいって話じゃないと思われる。
 
 ついでに言うなら、「余計な選択肢の排除」それ自体は良いとしても、「具体的に排除する手法」も大切だ。特別ルールで「アレしなさい、コレするな」なんて縛るのは、どう考えても良くない。それぐらいだったら「多少余計な選択肢」が残る方がマシかもしれないぐらいだ。ただまあ、「じゃあどーしろと!」って部分は、ゲームデザイン&ゲームデヴェロップ経験がロクにない私が語るべき問題じゃないと思う。デザイナー各位で悩んで下さいませ。
 
 まあ、実際ゲームをデザインした経験がある方なら、こういうコトは経験や勘によりわかっていることだと思う。ただ、このブログは「よろず評論ブログ」であり、言葉にしにくい「経験や勘」でどうこうってモノを、そーゆーモノを持たない人間に説明するため言葉に代えてゆくのが「存在価値の1つ」だからして、いちいち説明しているわけだ。「そんなことして、具体的に何の役に立つのか」なんて考えてはイケナイ。とりあえず、ある日いきなりこかど殿から「ゲームデザイン論についての原稿を添削して下さい」って趣旨のメールが送られてきても、対応しやすくなると思われる(苦笑)。そーゆー人間が増えれば、そんなメールが私に送られてくる確率は減るんじゃないかなあ…

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