5月24日2008/05/25 02:52

 うーむ。これはやはりここで吼えるしかないなあ。しつこく「ヒトラー電撃戦」ルール解釈について。イマイチ自信が持てないオークスの予想より、こちらの方が「語っておく必然性が高い」と判断した。何かを長々と語りたい時には、やはりここで語るのが一番。分量気にする必要がないので(苦笑)。
 
 正直言おう。さすがにここでこのゲームの「ルールの穴と、それを埋めるための解釈」を語りたくはなかった。他にも語る場所があるんだし、この話題に付いていけない読者のことも無視できないので。ただ…後述するけど、それでもあえてココで語る必然性があったんだよ。よって、あえて「ここは私の都合で運営されている場所だ」と開き直らせてもらいましょ。
 
 今回発見した穴は、ルールの完全矛盾である…おい。存在自体は前々から気がついていたんだけど、「どう解決するか」について軽く考えていたので、いちいち語るほどの価値はないと思っていた。しかし、色々考えてゆくうちに「大胆な改訂を提唱する価値がある」という結論が出てしまったので、分量が増えました。よって今回は、ルールの穴を埋めるだけでなく、「ルール改造」にまで踏み込んだものになります。その必要があるかどうかは各人の判断に任せますが、原則としては「そこまでやる必要性はない」ものだと思って下さい。
 
 まず、ルールの矛盾について。日本語版英語版を問わず、一般戦闘のルールには、「電撃戦に戦闘を実施したユニットも、1つ以上の装甲部隊を含むスタックなら、一般戦闘フェイズに戦闘できる」とある。これは、装甲を含まないスタックは一般戦闘フェイズに戦闘できないって意味だろう。しかしながら、「電撃戦フェイズに攻撃した敵が生き残っているなら、再度攻撃する必要がある」っていうルールがその直後に出てくる。
 
 問題点はこうだ。装甲部隊1戦力を含んだスタックが、電撃戦フェイズに敵を攻撃したとする。ダイスを振って「攻撃側の装甲部隊に1損害」を含む結果が出た場合、このスタックからは装甲部隊が無くなる。さて、このスタックは一般戦闘フェイズにどうするべきなのか?攻撃してもしなくても、ルールに従っていないことになる。
 
 私が考える「一般的なルール解釈」に従うと、このスタックは「攻撃できないし、しない」のではないかと。戦闘する権利が与えられない以上、戦闘する義務からは免除されるってワケだ。よって、「攻撃する必要がある」って部分には、「もし可能なら」って記述を付け加えるべきである。私は最初、これで解決済みの問題だと思っていた。
 
 話を進めよう。今度は、装甲部隊を1戦力だけ含んだスタック2つが共同して電撃戦フェイズに攻撃したとする。結果はやはり「攻撃側の装甲部隊に1損害」ってものだとする。最初の解釈に従えば、どちらか一方のスタックが「攻撃できなくなり、攻撃義務を免除される」ことになる。しかし、もう1スタックは攻撃義務がある。よって戦闘比を求めたところ、「攻撃を宣言できる最低比」である1:1を下回った。この場合どうなる?この場合も「攻撃義務は免除される」と考えるべきなんだろうな…。1:1未満の戦闘を解決する手段がないので。
 
 今度は、状況を強襲上陸にする。目標は山地のある海岸。電撃戦フェイズに攻撃した結果がイマイチだったので、一般戦闘フェイズに「どんなダイス目が出ても、相手は全滅も退却もしない」ことが確定した(山地は退却義務が一部免除されることに注意)とする。この時点で、攻撃側は「橋頭堡上のユニットは、いつでも自軍支配の港に戻っていい」ってルール(14.1.2。英文には「always」って記述がある)を使って攻撃を中止して出撃した港に戻ることができるか?できない気がするんだけど…
 
 とまあ、あくまでルール解釈の枠内で物事を考えたとしても、一応「こうすべきなんだろな」って答えは示せる。よって、普通に考えればこうプレイすべきなんだろう。でも…なんか「ちょっとした違和感」があるんだよね。このルールブックを書いた奴は、本当にこういうルールにしたかったのか?もしそうなら、もっと別の書き方をしたんじゃないか?って疑問があるんだな。
 
 たとえばだ。外国人がつたない日本語で「ハシ」のことを話そうとしているとしよう。イントネーションから判断すると、コレは明らかに「橋」。だから、橋のことを話している…のかと思っていたんだけど、どうも話がかみ合わない。ひょっとしてコイツは「端」のことを話しているのでは?こういう状況と似たような「違和感」を感じるんだよね。
 
 そもそもだ。英文ルールブックには欠落があり、おかげで矛盾が生じている。この部分にのみ注目してルール解釈を行った場合、欠落しているのは「もし可能なら」だと見当が付く。でも、それを全体に当てはめてゆくと、なんか「どこかがズレてるんじゃねえか?」って感じがして仕方がない。そのため、「ひょっとして、もっと重要な書き落としをしているのか?」と疑ってみたわけだ。
 
 そこで色々苦悩して出た答えは、抜け落ちているのは「もし可能なら」ではなく、「もし攻撃を望むなら」じゃねえか?ってものだ。つまり、「攻撃しなければならない(英文have to)」ってのは、実は攻撃対象選択に関する義務に過ぎず、攻撃そのものの義務じゃない。攻撃を継続するかどうかは攻撃側プレイヤーが自由に選択できるけど、攻撃するのなら電撃戦で攻撃したゾーンの敵に限る…こういうルールにしたかったのではないだろうか。
 
 これは重要極まりない意味を持つ修正である。実は実際のプレイではあまり出てこない事例(電撃戦で攻撃・一般戦闘では攻撃中止って手順を踏む可能性があるなら、一般戦闘だけやった方が勝ることが多い)だと思われるけど、影響は確実にある。我ながら「こんな重大な訂正を提唱する権利あるの?」って気がするね。
 
 ただ…こう考えると、なんか全体の整合性がとれる気がするのも事実。そもそも攻撃が禁止されている(装甲を含まなくなるとか、比が立たない)のなら、攻撃相手の選択義務なんぞ無視して問題は生じない。攻撃中止を自在に選択できるのなら、強襲上陸部隊が「いつでも」帰還できるとしても矛盾が無くなる。もし「やっぱり攻撃義務はある」とするならば、1:1を下回る戦闘をしなければならなくなった時、「攻撃中止」ではなく「攻撃側が一方的に損害を被る」といった解決方法がある方が自然だし、強襲上陸部隊の帰還についても、タイミングがより厳密に指定されているような。少なくとも私の中では、コッチの方が違和感のないルール構成になるんだな。
 
 さらにだ。ささやかながら、この解釈を正当化できる理屈もある。このゲームは元々スペイン製だ。デザイナーもデベロッパーもおそらくスペイン人で、「基本となるルールブック」はスペイン語で書かれていたと推測される。それを英語に翻訳したモノを相手に、我々日本人がどうこうと言ってるわけだ。「翻訳上の問題」が生じている可能性は、より一般的な米国製のゲームより遙かに高い。このルールがそれに該当するかどうかはともかく、疑ってみる価値はある。もっとも、だからって「スペイン語版はどーなってるんだ!」って騒いでも意味がない(私はスペイン語なんてわからん)けどね。
 
 正直あまりにも重大な訂正なので、提唱者である私自身、この解釈に拘泥するつもりはない。対戦相手の方から「私もその解釈の方がいいと思うので、そうプレイしましょう」と提唱してこない限り、ルール解釈の枠内で判断されるもの、つまり「もし可能なら」が省略されているだけであり、攻撃義務があるって解釈でプレイする。「ルールブックの記述に忠実なプレイ」はこちらだと思うので。ただ、だからって「黙って忘れちゃう」のはどうかと思う内容であることも事実。色々考えた末、「分量過多を気にする必要が無く、なおかつ最も公的な意味が薄い場所」であるココに書き散らかすことにしました。
 
 ちなみに、この内容を日本語版発行元であるコマンド編集部に通報すべきかどうかは、大いに迷っています。今のところの判断は「その必要なし」としてあるけど。重大は重大だけど、「ゲームを一変させる」とか、「ドコをどう見てもオカシな事態が発生する」って修正じゃないからねえ。まずはここの読者の方々の反応を見てから、どうすべきか決めようかと。

5月26日2008/05/26 23:08

 オークスはトールポピーですか…色々言いたいことはあるんだけど、それは今週末まで黙っていることにしよう。とりあえず、「逃がさないよう注意しなきゃ!」とだけ言っておこう(わかる奴にしかわからん話だ…)。
 
 本日は少し悩んだ末、「宿題」を手っ取り早く片付けることにした。題して、「複数のOSを運用する方法」。ただ…根が技術系のヒトではないので、大したことは書けない気が。内容についてはあまり期待しないで下さい。
 
 Macが自作できるかも?って世の中だ。複数のOSを使う人間ってのは、確実に増えている。実際は「昔々からいる、放置しておいてもそーゆーコトをやりかねない奴」に、「諸般の事情からMacのスイッチキャンペーンに騙されてみることにした」を加えただけって気もするけど。それでも増加は増加だよね。
 
 とりあえずMac自作の話はさておこう。今のMac(もちろん正規版)には、デフォルトで「Windowsをインストールできる仕組み」が付属している。理屈はこうだ。Windowsってのは、当然「昔々の」PCにもインストールされるって前提がある。実用になるかどうかはともかく、少なくとも仕様上はそうなっている。よって、レガシーな規格を完全に捨て去るワケにはいかない。まあ、最低でもPentium4系列のCPU積んだマシンに「インストールすら出来ない」のはマズいでしょ。
 
 これに対し、今のMac OSはそんなもの無視できる。言ってみれば新参者だからね。だから優れている…ってのは短絡的な考えではあるんだろうけど、まあそういう側面もある。ただ、この結果「何の工夫もナシに」MacにWindowsをインストールしようとしても、うまくいかない。「昔は必要だった」何か(OSより下のレベルのプログラム)が足らないと判断されるようだ。
 
 ほとんど同じなのに、もったいない…と考えたのかどうかは知らないけど、Mac OSには標準で「Bootcamp」ってプログラムが提供されていて、コイツを使うとWindowsがインストールできるようになる。まあ、狙いは「Windowsも動くんだから、Mac買って」ってトコロだろうけど。とりあえず、Windows XPは問題なく動くそうな。記憶が正しければ、Vistaにも対応したはず。
 
 ただし、私の知る限りでは、この2つ「しか」動かない。Server系列のOSについては実験例があったように記憶しているけど、問題があったかどうか忘れた。むしろ問題なのは、「古い」OS。Windows 2000とか、Windows Meとか、果てはWindows 95については…どうなんだろ?
 
 こんな古いOSを使う必要があるのか?一部の、特殊な事情を抱える人間にとっては。独自アプリケーションを捨てきれない企業とか、プリンタドライバを変更したくない印刷業界(普通なら無視される僅かな色の違いが許されない世界だから)とかが代表だけど、ごくごく一部のマニアにとっても重要だったりする。要は「古いゲームは、新しいOSに対応してない」のが当たり前だからして。
 
 こういう古いOSを今のMacにインストールしてみたらどうなるか?うーん…多分動く。それ以上のことは言えない。ネットで探しまくれば、実験例が見つかるかも知れないけど。とりあえず、推奨はしないと言っておこう。
 
 それでは、古いOSを捨てられない奴はMacに乗り換え不能なのか?いやいや、そんなことはない。エミュレーターを使えばいい。これなら大丈夫だろう。そもそも、こういう「レガシーな」ものを動かすのが主目的なんだし。
 
 エミュレーターとは?ソフトで強引に「古いPCのフリをする」領域を使って、昔懐かしいソフトを動かすモノ。ファミコン・スーファミエミュレータとか、PC-9801エミュレーターなんかが有名だね。Macの場合、ちゃんと「Windows機互換エミュレーター」なるものが存在します。Windowsが動くようになった今でも。
 
 Windowsがインストールできるのに、何でエミュレーターが?これはチャンと理由がある。OSの切り替えってのは、普通電源を落として再起動する必要がある。用途によるけど、これじゃあやってられない…って場合も多いわけだ。ただし性能は「普通にインストールしたモノより確実に劣る」んだけどね。
 
 ならば、普通にインストールした方がいい…とは限らない。古いOSって、今のPCの性能をフルに使えないので。記憶が正しければ、Windows95は今の大容量HDDを上手く認識しないはず。また、DVDまでは認識するだろうけど、ブルーレイディスクは多分マトモに動かない。ブルーレイが再生できないどころか、DVDもCDも再生できない可能性すらある。
 
 そうやって考えてゆくと、実は「最新PCで古いOS使いたいのなら、直接インストールするよりエミュレーター使った方がいい」って話がある。Windows XP・Vistaにも「レガシーOS用エミュレーター」があるんだし。「Vista上でXPエミュレートを動かす」みたいに、世代が近いと欠陥が目に付く(遅くなるし、メモリを食う)けど、Windows95のような「軽い」OS(あくまで今の水準からして)だったら、むしろ利点の方がデッカイんじゃないかなあ。
 
 私は正直、「古いOSは動かなくてもいい」と判断しているけど、流石にまだXPは捨てられないかなあ。新PC導入計画に色々迷いがあるのは、これが原因だったりする。正直言って、「Vistaなんて無視しちゃおうか」って考えもあるんだよね。更に、「大枚はたいて爆速PowerMac買って、エミュレーターでXP運用」なる無駄遣いも真剣に考慮してるし。ちなみに後者を実行に移すと、Mac OS用のソフト買うカネがないのでXPばかり動かす可能性が高い(iTunes以外)というオチがつくけど。
 
 ただまあ、エミュレーターってのは、どちらかと言えば「玄人向け」のソフトである。色々設定をいじってやる必要があるからねえ。業務上の必要があるのならともかく、ゲームのためにそこまでするか?って気がするのも事実。ただまあ、そーゆー選択肢もあるってことは知っておいて損はない。興味があるのなら、色々調べてみてはいかが。なお、私にこれ以上細かいことを聞かれても対応不能です。ソコまで知識があるワケじゃないので。
 
 なお、エミュレーターでLinux運用…ってな話は故意に割愛しました。たとえ遊びであっても、その系列のOS使うことに意義があるような奴は、私より確実に知識豊富だから。つーか、逆に聞きたいことがいっぱいあるんですけど!

5月30日2008/05/31 04:17

 昨日はネタ総ボツ。いかんねえ。少し不調だなあ。ま、いずれ回復するとは思うので、気にはしないでおこう。
 
 本日の話題は、雑誌の表紙について。先日某所で「偉そうなこと」語ってしまったので、フォローしておこうかなと。なお、こんな話題にしてはヘンな色を大量に使います。ご注意を。
 
 ヘンな色を使う理由は、そりゃもう「表紙について偉そうなコト書いた」対象が、ゲーム系の雑誌だから。よって、「ゲーム雑誌の表紙」についての話題が中心です。一応は他の雑誌についても触れる予定ですが。
 
 きっかけは、「プランサンセット」ってゲーム雑誌が「どの表紙が良いか、候補を公開して意見を公募していた」ことにある。私も一応候補を眺めてどれが良いか考えたところ、「どれも不満アリ」って結論が出てしまった。理由は単純。どれもこれも「ゲームの写真」なんだけど、雑誌記事とまるで関係ないのだ。
 
 ゲーム雑誌の表紙って、記事と関係あるゲームを使う必要があるのか?これに対し、私は「ある」と答えた。ただし、少しひねった観点から。「記事に入れたかった写真・図表を表紙に使った方が、合理的だから」ってのがその理由である。
 
 ゲーム関連の記事ってのは、実は「写真・図表と文字情報のバランス」が悩ましい。文字で説明するより、写真の方が「全体がわかりやすい」のは事実。しかし、これに頼りすぎると「写真ばかりで冗長」ってなことになる。この辺の苦労については、開き直って「写真を使ったことがない」ブログを運用してる私より、プレイ中に撮った写真を使ってブログ書いてる皆様の方がよくわかると思う。
 
 これが雑誌になると、更に話が複雑になる。よほど贅沢な作りにしない限り、全頁フルカラーなんてことはあり得ない。よって、写真・図表もモノクロのものが増える。これは正直言って「細部がよくわからない」ものになりがち。こんなものを大量に使うと、冗長かつ単調なものになってしまう。よって、実は雑誌の場合「自在にカラー写真を使えるブログより、文字情報が大事」ってことになりがち。文字ばかりってのも考えモノではあるけどね。
 
 そうやって考えてゆくと、ゲーム雑誌ってのは「もう少し写真・図表が欲しいなあ」って記事が増える。とはいえ、ここで実際に増やしてはイケナイ。モノクロって壁がある以上、写真・図表は腹八分に留めておく方がいいから。これはあくまで私の意見だけど、賛同してくれる方はいるんじゃないかなあ。
 
 ここで表紙に話を戻そう。表紙ってのは、貴重な「カラーページ」である。よって、ここに見栄えが良くて重要な写真・図表・絵を配置する余地がある。ならば、「記事と無関係な」ものにするより、「本当は記事に入れたかった」写真を使った方がいいのではないか?これが私の意見である。
 
 コレはある意味ケチくさい意見だと思う。本文もフルカラーで写真入れ放題にすれば、別に表紙で「記事をフォロー」する必要はない。でもねえ。そういう贅沢な作りは難しいよ。「どうせたくさん売れないんだから、むしろ贅沢に作って高く売る」方が勝るって考えもあるんだけど、限界はあるはず。それに、こういう作りにすれば「表紙の写真見て記事が読みたくなる」ってな効果も大いに期待できる。
 
 ちなみにだ。ゲーム雑誌全般がこういう作りをしてるわけではない。むしろ少数派だったりする。理由は単純。最近のゲーム雑誌は「付録ゲーム付き」がむしろ主流。こういう雑誌の表紙ってのは「ゲームのパッケージ」を兼ねるので、「やる気をかき立てる」イラストになることが多い。なまじゲームの写真なんて生々しいものを使ってしまうより、コッチの方が「早く中身が見たい!」って飢餓感を煽れるんじゃないかなあ。ゲーム雑誌の付録ゲームってのは、むしろ主役である。よって雑誌の作りは「如何に記事を読ませるか」よりも、「如何にゲームをプレイする気にさせるか」を優先させるわけだ。
 
 ゲーム以外の雑誌はどうか。まずマンガ雑誌だけど、掲載作品のカラーイラストかグラビアねーちゃんってのが主流。中身と無関係なイラストってのは、ビッグコミックとビッグコミックオリジナルがあるけどね。他にも数誌確認している。
 
 より深いトコロを語ると、「掲載作品のカラーイラスト」も2つに分けることが出来る。コミックスの表紙になるものと、そうならないものだ。私の印象では、週刊誌の場合は「コミックスの表紙になる」割合が増えるような。カラーイラストにかかる手間を考えたら、〆切に余裕のない週刊誌作家の方が「コミックス用の表紙なんて書いてられるか!」ってコトになりがちなんでしょ。
 
 一般総合誌はネーチャンの写真が多い。これも「グラビアページで使ったネーチャン」派と「表紙専門のネーチャン」派に分かれる。イラストを使う場合は確実に「記事とは無関係」なもの。これは話題が幅広い関係上、特定の記事と関連性の深い写真はむしろ使いにくいからではないかと。専門誌の場合は、特集もしくはニュース記事と関係のある写真・イラストが主流。とはいえ、実は例外もいっぱいあるけどね。
 
 こうやって見てゆくと、実は案外「記事と関係ない表紙」の雑誌は存在する。よって、ゲーム雑誌でも「記事と関係ない」ゲームの写真ってのは「アリ」ではないか…って意見もあるだろう。実は、私もこの見解に賛成する。あくまで私の好みは「記事と関係あるモノ」だけど、そうじゃないからって充分許容は出来る。
 
 代表例としては、「ニュース性の高いモノ」を使うこと。近日発売予定だとか、賞をもらったとか、ゲーム業界以外で採り上げられたとか、一般的な話題と関連性が深いとか、とにかく「特別に紹介する価値がある」ものを表紙にする。こういうゲームは本来「記事でも採り上げる」べきだと思うけど、そこは層が薄い世界の話、うまく記事が集まるとは限らない。だったら「表紙も記事の1つ」と割り切って、紹介に使ってしまうのだ。
 
 また、こういった話題性が無くても、「見た目が良いので」表紙に使うって発想もある。記事としてというより、「一枚絵としての完成度」で勝負って発想だ。どうせこれをやるなら「連載」にしてしばらく続けた方がいいと思うけど、それだけのネタを見つけるのは一応可能ではないかと。
 
 ただ…正直言おう。「プランサンセット」の表紙の場合、「記事と関係ないゲーム」を使いたいのなら、やっちゃイケナイことをやっちまったと思う。題材とするゲームが「美しくない」わけではない。構図やピントなど、写真技術上の問題があるわけではない。そういった「絵としての完成度」は悪くなかった。けど、表紙ってのは単に「美しい絵」ってだけじゃ駄目だ。別の「大事な点」が欠けていたと思う。
 
 欠けていたモノは何か?一言で言えば、「覚悟」かな。「表紙はこれにするんだぁ!」って情動がなかった。考えてみるといい。技術や発想のウエイトが重いイラスト・絵はともかく、写真の場合「誰が撮っても同じ」ではないかと思われがちだ。しかし、実際は違う。同じ道具を使っていたとしても、「プロが撮った写真」と「ド素人が撮った写真」はかなーり違う。ネーチャンの写真にしたって、「いい表情を引き出すコツ」だの「モデルと舞台に相応しい構図の選び方」だのといったトコロに「プロならではの工夫」を盛り込む余地がいっぱいある。
 
 そりゃあゲーム雑誌の場合、プロの写真家に頼んでどうこうって話にはならない。でも、「とりあえずユニット並べてパチッと撮りました」って写真と、「少しでも良くしようと思って色々工夫した」写真には差があるはずでしょ。それだけの工夫をしたのか?ここが疑問だったりするんだな。だから「覚悟」が足らない。
 
 いやね、私は別に「見る目がある」人間じゃない。だから実は、写真だけ見て「気合い入っている、覚悟のある」ものかどうか、必ずしも見抜けるワケじゃない。「覚悟足らない」などと断言したのは、写真そのものの出来じゃないんだよ。それとは別に、「覚悟足らない」って感じさせる理由があったんだよ。それは何かって?そりゃもう、「どの表紙が良いか、候補を公開して意見を公募していた」って部分だ。この時点で、記事と無関係なゲームの写真を使う権利を喪失したと思う。
 
 よーく考えてみて欲しい。記事と無関係なゲームの写真を使うってコトは、その写真は「単体の作品」として扱われる。言ってみれば掲載された記事と同格。しかも、重要な。「何をネタにするのか」公募ってのなら話はわかるけど、「どれがいい?」って読者に聞いちゃ駄目でしょ!「これなら喜んでもらえるはず」って自信が持てるくらい、完成度を高めた写真を持ってこないと。埋め草記事じゃないんだから。
 
 それに、どれがいいのか公募しちゃうってコトは、言ってみれば「ネタバラシ」だ。掲載記事の全てを発売前に公表して「誤字脱字はない?」って聞く編集者がドコにいる?表紙を記事と無関係なゲームにするってコトは、その表紙はそれだけで「作品」であり「記事」である。発売前には「お楽しみに!」って状態にしなくてどーすんの。
 
 雑誌の表紙ってのは、その雑誌の顔である。当然ながら大切に扱う必要がある。決まり切った約束事を守るだけじゃ駄目だけど、奇抜に走りすぎてもハズす。公開して意見を聞く必要性はあるかも知れないけど、全部公開したらワクワクしない。演出に関しては深く考えた方がいいんじゃないかなあ。
 
 なお、その後決定した(らしい)表紙は記事と関係が深いモノで、実によろしいと思う。「記事読んで、どういう経緯を経てああなったのか」確認したくなるものに仕上がっていると思うな。記事に関連させると、表紙だけだと「チラリズム刺激状態」になるって利点があるわけで。これなら公募してもOK…どころか、販促効果まであるんじゃないかなあ。少なくとも私はそう思います。
 
 もっとも、私自身は「表紙を一から作る」才能はない。単に批評するだけ。これは痛いぐらいわかっていることだ。なにせ昔作った私の同人誌は…それ以前に私のサイトのトップページがいかに「つまらん」ものか見てもらえば…ブツブツ…