8月31日2009/09/01 02:15

 政権交代しましたねえ。実は私、今回の選挙は「児ポ法に対する態度」優先で投票したので、どーでもいいんだけど(苦笑)。この法案絡みでトンデモ発言ぶちかました、茨城3区の某元議員が落選したのはザマミロだけど、表現の自由に理解が深かった東京8区の某社会党議員が落選したのは、ちょっと痛いかも。
 
 本日も「コミケ後の話」を。こればかり続けるのはどうかと思うけど、なんつーか、他にいいネタがなくて。あくまで私の中でだけど。申し訳ないけど、我慢して下さいませ。
 
 今回のテーマは、「同人誌=エロって認識は、どの程度正しいのか?」としよう。何となく「この際だから徹底的に書いてやる」って気分なので、私がどんなモノ買っているのかを告白しつつ考察していこうかなと。
 
 ハッキリ言って、コミケ参加歴がそれなりに長い人間でさえ、「同人誌=エロ」だと思っている奴は少なくない。私も「売れ筋同人誌」がエロ系だってコトは否定しない。けど、コレは間違った認識である。コミケに限定して考えても、種類だけ考えたら「エロくない同人誌」の方がずっと多い。
 
 何をもって「エロ同人誌」と呼ぶのか…は、地味に難しい問題だ。いわゆる「男性向け」はわかりやすいんだけど、「女性向け」をどう扱うのかが難しい。いわゆる「18禁表現」の有無だけで区分けしにくくなるから。作っている当人は「エロじゃない」と思っているのに、18禁表現がある…ってな事例が結構あるんだそうな。また、「肝心のトコロになると暗転する」みたいな表現で「内容はエロ系だけど、18禁表現がない」ものもある(これは男性向けでもあるけど、同人誌でコレやるのはごくまれ)らしい。
 
 あくまで感覚的な話をすれば、コミケに参加しているサークルのうち、エロ同人誌を売っているのは3割程度。この割合は、おそらく昔に比べれば増えているような気はする。ただ、昔は「エロは特に落選しやすい」って都市伝説(本当かどうかは知らない)があったので、「コミケに参加申し込みしてくるサークルの割合」で考えれば、だいたいこんなものだったんではないかと。つまり、残り7割はエロじゃない。
 
 パロディが原則禁止されているコミティアって同人誌即売会の場合、非エロ率は更に上昇する。9割方がエロじゃないからねえ。逆にエロオンリーって即売会も存在する。ただ、この手の「オンリー即売会」はあまり規模が大きくないけど。それやこれやを考えると、どう考えても「同人誌即売会」に売られている全同人誌のうち、控え目に見ても5割以上はエロくない同人誌だ。
 
 ただ、おそらく売り上げはエロ同人誌の方が多い。実は「ものすごく売れる同人誌」だからってエロとは限らないんだけど、割合から言えばエロが多い。とはいえ、コミケ全体で考えれば、せいぜい「売上総数の7割がエロ」ってレベルじゃないかと。これはつまり、もしコミケからエロを完全追放しても、まだ「ビッグサイト1日貸し切り状態」の客が残るって話になる。あくまで単純計算に基づく話だけどね。
 
 だいたいだなあ。ここを熱心に読んでいる方なら、「同人誌=エロ」とは思っていないはずだ。だって、私は「エロくない同人誌」中心に買う人だから。今まで何度か掲載したコミケレポートでも、大半が「エロくないもの」を買う話に終始している。エロ同人誌も買うことはあるけど、私にとっては「同人便せん・カレンダー>エロくない同人誌>エロい同人誌」である。
 
 今月のコミケ&コミティアに話を限定するなら、エロが絡むモノは…今回は気分により、メーカー名を出すことにしよう。オーガストのサントラ集(実は単なる先行発売)と、ねこねこソフトとコットンソフト(よくわからん経緯により分裂した、謎のエロゲーメーカー)のセット&シングルCD。一応セットに付いてきた設定資料集(ラフ画集とも言う)がちょっとエロかった。基本的なお目当てはサントラCD(今聴いている)だ。他はちーともエロくない。あとは競馬本だの、同人ゲームだの、同人便せんだの、ロケットエンジン解説本だのといった、フツーの人間には意味不明な品だ。
 
 こういう「非エロ系同人誌」を入手する動機は、比較的単純。「他では類似品すら手に入らない」ことが多いから。マイナーなので商業誌じゃできないようなモノを扱っているケースは多いからね。メジャーなモノであっても、切り口が新鮮だったりする。その大半は「誰が得するんだ」ってシロモノかもしれないけれど、コミケには「その誰か」が存在している可能性が高い。だって、そーゆージャンルをうろついている奴って、そういうモノを探し求めるためそこにいるわけだから。コミケというのは、ちょっと前に流行した「ロングテール理論」(ドマイナーな品含めて品揃え豊富にした方が、全体の売れ行きが良くなるって理論)なるものの実践例である。だからあれだけ巨大で、あれだけ人が集まるのだ。おそらくエロだけだったら、ああはならなかったと思う。
 
 コミケにおいて、エロのパワーは重要でしょ。でも、エロが全てじゃない。クルマの性能が「エンジンで決まる」としたって、「エンジンさえ良ければ、他がクズでもイイ」って意味ではないのと同じだ。マイナーなものであっても、「マイナーだから」って理由で切り捨てない姿勢も重要なのだ。「どーせエロばかり」って理由でコミケに見向きもしないのは、もったいないと思うな。
 
 正直言えば、「コミケに行かなきゃ気が済まない」と真顔で断言できるような人間じゃない限り、コミケに来て欲しくはない。ただでさえイヤになるほど人がいるのだ。これ以上増やしてどーする。でも、「コミケとやらに行ってみたい」って気持ちがわかるのもまた事実。私にとっては「生き地獄に堕とされる」覚悟を決めてまで入手したいモノがある場所であり、私と似たような趣味を持つ人間は一応いるのだから。単なる好奇心だけで踏み込むのはやめるべきだろうけど、「欲しいモノがあるんだ」と目を輝かせて主張されたら、「ようこそ」と言うしかない。渋々とではあるけどね。だって、オレの分が売り切れるかもしれないじゃないか(苦笑)。
 
 あれだけ巨大なイベントだけあって、コミケについてはとても語りきれない。多分、個人の力だけでは、故米澤代表でさえ語りきれなかっただろう。私は「3日間西へ東へ飛び回る」のがデフォルトという「特殊な趣味」(流石に少数派だと思う)があるので、他の人にはなかなか語れないモノを語る自身があるけれど、それでも「じっくり見ている時間も体力もない」関係上、見逃しているモノも山ほどあるだろう。極端な話、コミケは「全参加者数と同じ数の楽しみ方がある」のだ。大抵のビッグイベントが「皆で共通の体験をする」ことに重きを置いているのに対し、コミケはそうじゃない。そういう「懐の深さ」は、コミケに行かないと…どころか、行っても最初のうちはわかんないと思うなあ。
 
 しかしだねえ。なんで私は「暑さ寒さに耐え、シャレにならん人混みにもまれ、走るな止まるなココに並べといった指示に大人しく従い、あの広い広い東京ビッグサイトの西館・東館を往復し、量産効果が期待できない分どう考えたって割高にしかならない同人誌やらなにやらを買う」などという、インドの修行僧並みの苦行をやらなきゃイケナイのか、時々疑問に思ってしまいますな。いやまあ、本当のところは「時々じゃなく、常に疑って実行しない」のが正しいんだと思うんですけど…

9月1日2009/09/01 22:23

 Operaがバージョンアップしないんだけど…10.00正規版になったはずなのに。なんか色々怖いので、手動でバージョンアップすべきか真剣に考慮中。
 
 本日は、「そーいやあ最近ゲームネタがご無沙汰だなあ」と気がついたので、ゲームネタで。やはりある程度は「ネタのバランス」考えないと…
 
 お題は何にしようか悩んだけど、あえて「私の好きなゲーム」を語ってみようかな。色々言っている割に、「どんなモノが好きなのか」あんまり書いてこなかった気がするので。
 
 とはいえ…あえて真正面から「好きなゲーム」って言われてもなあ。私はあまりこだわり無く色々プレイするし。根が「勝負師タイプ」なので、ゲームの出来・不出来よりも、「面白い対戦だったかどうか」の方が気になる。本来面白いゲームであっても、「つまらん戦いをやっちまった」ってコトは多い。
 
 私にとっては「面白い対戦が期待できるゲーム」が良いゲーム・好きなゲームだとは思う。でも、「それを具体的に挙げてゆけ」と言われてもなあ。たくさんありすぎて、しかも優劣付けがたい。おおむね「世間的に評価の高いゲーム」ならば特に問題はないって感じになっちゃうな。
 
 そりゃあね、私もゲームの例会などで「こーゆーモノがやりたい!」って発言するコトはある。ただ、それは言ってみれば気分の問題。最近マイブームだったり、逆に久しぶりにやりたくなったり…といった気分の問題に過ぎない。「このゲームがイイ」ってこだわりを持たず、「どんなゲームでもある程度戦えるぜ!」みたいな領域に達するのが、私としては理想って気がするなあ。
 
 もちろん、世の中には残念ながら「私の趣味に合わないゲーム」が存在する。そのかなりの割合が「誰の目から見てもイマイチ以下」だけど、一部は「高く評価する人も多いけど、私の肌に合わない」ものだ。私の理想から言えば、そーゆーゲームは少ないに越したことないわけだけど。ただまあ、そーゆーモノが存在するのは「仕方ないし、当然のこと」だと割り切っているので、大きな問題は生じていない。
 
 一応の好みとしては、「キッチリ研究していて当たり前」ってゲームよりは、「基本さえ押さえておけば、アドリブで多彩な作戦を展開できる」ゲームの方が好みかな。ソロプレイなどによる研究は大事だと思うけど、「キッチリ研究していた奴の勝ち」ってのは、それはそれで何か違う気がするんだな。相手の「次の一手」が予想の範囲内ってのは、それはそれで面白くないような。私のタイプを考えれば、ごく当たり前の意見だと思うけど。
 
 テーマはかなり「何でもOK」だと。マイナーテーマでも「マイナーだから」って理由で嫌うことはない。古代戦や架空戦でも楽しく遊べると思うし、海戦・空母戦・空戦も別に嫌いじゃない。ただまあ、「ルールの習熟度で全てが決まる」のはどうかと思うので、複雑で珍妙なゲームだと色々困っちゃう気はするけど。もっとも、私自身が必要であると判断すれば必死に覚えるので、特に問題視するコトではないような。
 
 このように、「好きなゲーム」と聞かれると困ってしまうワケだけど、好き・嫌いではなく「こだわりがあるかどうか」で考えれば、答えはすぐ出せる。「戦国大名」「戦国の一番長い日」「ヒトラー電撃戦」(五十音順)の3つである。理由?そりゃまあ、ルールブックに名前があるゲームと、作戦研究が商業誌に掲載されたゲームだからねえ。これでこだわりがなけりゃ、そりゃあ薄情ってモノでしょ。
 
 もっとも…「戦国大名」はトラウマも抱えている(苦笑)ので、気軽な気持ちでプレイしにくい気がするなあ。少なくとも、私の方から「やりませんか?」とは、言いにくい気が。「戦国の一番長い日」はそんなコトないんだけど、気軽にプレイできるゲームじゃないでしょ。プレイ準備が大変だからねえ。実はプレイ自体は結構サクサク進むって思っているんだけど。「ヒトラー電撃戦」は結構ビッグゲームだからなあ…なんで私はこんな「気軽にプレイできない」ゲームにこだわりがあるんだか。
 
 私は別に「マイナーだから好き」みたいな趣味はないけれど、「他人が征く道だろうが征かない道だろうが気にせず突き進む」傾向があるので、結果的に「他の奴はあんまり突き進まないモノ」にこだわりが生じやすいのかもね。おかしいなあ、私は「ゲーマーとしてはごく普通の奴」だと長年思っていたんだけど。やはり根がどこかしらオカシイってことなのか?
 
 これから先、こういう「こだわりのあるゲーム」が増えるのかどうかはわからない。増えそうな気がするけど(苦笑)。とはいえ、それが幸せなコトかどうかは…正直よくわからん。理屈としては「幸せなんだろうな」って気もするけど、それだけで片付けるには色々と…私はドコで道を間違ったんだろ?このホビーを知った時点で色々間違っていたのは当然として、その後も何かしら間違えてないかぁ?
 
 ただまあ、私は今もゲーマー人生まっしぐら。幸せかどうかなんて、人生の最期に振り返ってどうこうって話。今はただひたすら「ゲーマー人生」の実績を積み上げてゆくだけだと思う。その過程において「こだわりのあるゲーム」ができるのはむしろ自然だし、気にしても仕方ないのでは。とはいえ、なんかこう…もうちょっとマトモというか真っ当というか…
 
 ちなみに、「ベトナム戦争」(翔企画SSシリーズ)については、忘れさせて下さい(苦笑)。いや、実は悪いゲームじゃないと思うし、アレはアレで「またプレイしたい」と思ったりもするんだけど、それでも色々忘れた方が世のため人のためというか…

9月2日2009/09/02 22:37

 スワローズはもう駄目か…まあ、元々「こんなもの」と思っていた程度のトコロに落ち込んでいるだけって話はあるので、大騒ぎする価値はないんだけど。もう少し「下からイキのいい選手が上がってくれる」はずだったんだけどなあ…
 
 本日は気分の関係で、野球ネタ。先日友人と話して盛り上がった、「魔球と呼ぶ価値のある球」について。私と友人の主観に基づくものなので、異論は大いにあると思います。それを承知の上で、あえてここでも語ってみようかと。
 
 我々が認定した「魔球」は3つ。「星野伸之のカーブ」「野茂英雄のフォーク」「伊藤智仁のスライダー」である。総合能力はともかく、「魔球と呼ぶに値する球を投げるかどうか」に関しては、この3人が頭1つ抜けていると判断した。
 
 星野のカーブは、滅茶苦茶遅い。おまけに山なりにどろ~んって感じの軌道を描く。そのため、見逃すのはそう難しくなく、見送れば大抵ボールになる。カットするのは楽じゃないけど、無理ではない。余談だけど「ホンモノのカーブ」は「本当はストライクゾーン通った時にはボールと言われ、本当はボールの時にだけストライクと言われる」などと言われることがある。軌道がヘンなので、その辺の判定が難しいからなあ。
 
 しかし、この球は「後を引く」のだ。見送ったりカットしたりしてしまうと、その後に来る速球に対応できない。球速は「プロ最遅」と言われた投手なのに、複数の一流打者が「一番速く感じた」と言っているくらいだ。かといって、ストレートを待っているところにカーブを投げられると、つい振ってしまう。始末に負えない。
 
 おまけにだ。この「後遺症」は尾を引く。次の打席とか次の投手の時に影響するのならともかく、翌日以降も「バッティングが狂ったまま」ってことがある。ホームランのタイトル争いしていて、本来ならば1つでも多く打席に入りたいはずの選手が「星野の日にはスタメン外してくれ」と頼み込んだって話もあるらしい。とにかく「打者から嫌がられた」球である。
 
 野茂のフォークに関しては、あんまり説明はいらないと思う。ストライクコースに来てストンと落ちるので、つい振っちゃう。見逃せばボールだけど、読みが的中しない限りは手が出る。低めにキチンと決められると、バットにまず当たらない。弱点はスッポ抜けだの高めに浮いただのがあり得ること。こうなっちゃえば打ちやすい。
 
 フォーク使いはたくさんいるけど、あえて「魔球レベル」となると野茂かなあ。落差に関しては一番だったと思うし。「誰のフォークが一番か」については、色々論議した結果野茂に決まったと言っておきます。
 
 伊藤智のスライダーは、横の変化なので多少バットに当てやすい。そもそも、スライダー系列の球は「魔球」呼ばわりされないのが普通。「ストライクを取りやすい変化球」ってのが取り柄の球だと思われている。でも、伊藤智は「結構速いストレート」「速くて、少しだけ曲がる高速スライダー」「低速だけど、大きく曲がるスライダー」の3つが、ほとんど同じフォームから飛んでくる。これがミソ。
 
 マンガなどでは「デッドボールかと思って球をよけたら、変化してストライクと言われた」なんて表現が出てくるけど、こんなことはプロの世界じゃまず起きない。でも、伊藤智のスライダーはプロが腰を引いて逃げる。そしてそれがストライクと言われる。腰を引いちゃえば、バットに当たってもヒットにはなりにくい。高速スライダーだとストレートと本当に見分けにくい(球速はほとんど変わらない)ので、芯を外されてしまう。「いい時の伊藤智」は私の知る限り、最も「打てる(打たれる)気がしない」投手だった。
 
 他の投手の球にも、魔球と呼ぶに値するものはあると思う。特に異論が多そうなのは、フォーク使いに関してかな。我々は論議の末に野茂が一番だと認定したけど、他にも何人か候補は出たし。ただ、私がTV映像などで見た限りにおいては、一番「打てる気がしなかった」フォークは野茂のもの。魔球っていうものは、「ド素人でも凄さがわかる」方がカッコイイじゃん(苦笑)。つーわけで、野茂を選びました。
 
 この3つの中で、ドレが一番凄いって話はしなかった。結論が出るような話じゃないと思うので。ただまあ、あえて言うなら伊藤智のスライダーが「スゴい」かなと。「ホンモノのカーブ」使いは数が少ない。フォーク使いはそこそこの数がいて、野茂のフォークに匹敵する使い手も結構いる。それに対し、スライダーなんて「投げない奴は滅多にいない」球種だけど、魔球レベルってのは伊藤智だけ。松阪大輔のスライダーもなかなかスゴいけど、あれは「いい球」であっても魔球とは…「スライダーという平凡な球種を、魔球の領域に持って行った」という意味において、伊藤智はスゴかったと思うんだな。もっとも、私はスワローズファンだから、どーしたって採点甘くなるけどね。
 
 私もいい年齢だから、いわゆる「ノスタルジー」が大量に混じった結果こうなったコトは否定しない。でも、やはりこの3つを超える球ってのは、かなり難しいと思うんだな。今後もずっと「この3つが最高」であり続けるのか、それともこれを超えるスゲー球を拝めるのかはわからないけど、願わくは後者であって欲しいね。そう考えた方が世の中楽しいから。
 
 しかしだねえ…誰か伊藤智のスライダーを受け継ぐ奴はいないのかよ。「アレを教える?無理無理」なんて笑っている場合じゃないでしょ伊藤智コーチ。言いたいコトはわかるけどさあ。そーゆー投手が出てくれないと、このままじゃスワローズはBクラス落ちなんだよなあ…ブツブツ。

9月3日2009/09/04 00:00

 本日のお題は、「紙の何が駄目なのか?」としよう。活字中毒患者としては、やはり「これからどーなるのか」は気になる話なので。色は迷ったけど、やはりコレが相応しいかと。
 
 紙媒体が駄目なのかそうでないのか。これには色々意見はあると思うけど、とりあえずはこちらのリンクを参照していただければ。「現場」からの生々しい意見として、「もう駄目」ってことが前提になっているようだ。私も「これじゃあ駄目だな」と思う。
 
 しかしながら、それだけで終わってしまっては意味がない。紙媒体が駄目になったら困る身としては、多少なりとも「何が駄目なのか」「どーすればいいのか」を考えずにはいられない。もちろん、「これからどーする」も重要でしょ。私ごときが考えて結論が出る話じゃないけれど、せめて危機感をある程度共有してもらうべく、色々考えてみた。
 
 紙媒体が「駄目だ」と言われるようになる理由ってのは、いくつも考え得る。たとえば、「紙もしくはインクの原価上昇」とか。森林資源がどーだの、石油製品がこーだのって話になれば「紙媒体なんて贅沢品だ!」って時代が到来しかねないのは事実。ただ、これは今のところ「やや遠い将来に不安はあるけど、目先の問題になるレベルじゃない」のは間違いない。どう考えても別の理由だ。
 
 「マンガ含めて本読まない層が増えた」というのは、重要な指摘だと思う。ただ、正直それが「主要因」かどうかは疑問だ。何故か?本を読まない人間なんて、昔からいたから。「TVと新聞さえあればいい」って層は昔からいたからなあ。これについては、もっと突っ込んだ調査をしないと軽々しく結論は出せないような。少なくとも、「活字好き」「マンガ好き」が大幅に減った印象はないし、コミケの順調な拡大傾向はこの予想に反する動きでもある。
 
 「Webサイトにリソースを食われた」ってのは、これまた「重要な指摘ではあるけれど、主要因であるかどうかはまだわからない」ものじゃないかな。少なくとも、Webは現状「タダが当たり前」って世界であり、直接ユーザーのサイフというリソースを食っているワケではない。もちろん「時間」というリソースを食っているのは確実だけど、これは必ずしも「紙媒体に割いていた時間を、ネット閲覧に割いている」とは限らない。食っているのが「別のことに費やしていた時間」かもしれないから。モノにもよるけど、「紙媒体とネットで全く同じモノが同じ値段で読めるなら、紙を選ぶ」って意見も根強いし。
 
 正直言って、直接の要因としては「紙媒体への広告費が減ったから」だと思う。これが激減しているのは、色んな形で公表されているし。「雑誌の命運なんてモノは、読者の数や熱意ではなく、広告主の意向で決まる」なんてのは、その昔々ファンファーレって雑誌が消えた時に私が指摘したことである。それ以前もそれ以降も、好きな雑誌が消えるたびに「それでいいのか」と思ってはいたんだけど、だからって「広告依存システム」に代わるモノがあったとは思えないのも事実だな。
 
 何故広告費が減ったのか?これは色々言われている。一番大きいのは、「ネットを使えば広告費が節約できるから」かなあ。現状、私の印象では「ネットオンリーでは、広告活動は難しい」と思うんだけど、メディアミックスを使えばかなり節約できそうに感じるのは事実。逆に言えば、今までは「広告主が効率悪い広告費を出し続け、それを前提に紙媒体が刷られていた」という考え方も出来る。ネットの発達に伴い色んなモノが「過去の、効率悪いモノ」に成り下がるのはむしろ必然だろうから、別に今までが「効率の悪い、駄目なモノ」ってワケではないんだろうけど。
 
 いわゆる「衰退期」になると、実は「良い物が残る」ワケではない…ってのが、私の意見。こんな時に「生き残りやすいかどうか」は内容でなく、単純に「いい広告先を掴んでいるかどうか」とか、「親会社の体力とやる気」とかに左右され、読者の視点はカケラ程度にしか尊重されない…んだと、私は思い込んでいる。これが正しいかどうかは、正直わからない。私はそう思っているけど、単なる思い込みかも…って意識はある。
 
 出版物に関しては、「果ては零細にまで落ち込む」覚悟を決めさえすれば、一定の内容を保ったまま続けてゆくことが可能だとは思う。そうでなければ、シミュレーションゲーム雑誌などというシロモノが未だ健在な理由を説明できない。どっかで赤字補填されているのかもしれないけれど、この業界ほど落ちぶれた世界もそうはないと考えれば、採算ラインには乗ってもおかしくない。
 
 ただ、現実問題として「そんな覚悟をもてるのか」と聞かれれば、素直に無理だと言わざるを得ない。誰だって生活の方が大事だから。おそらくは「組織防衛の論理」が優先され、「今までの理念」はどっかに捨てられる。世の中ってのはそんなものだと思う。理念だけでメシは食えない。
 
 これが単に「紙がなければ、ネット使えばいいじゃない」って話になるのなら、問題は生じない…とは、正直思えない。少なくとも私には。私は要は「元凶は広告依存の経営方式」だと思っている。ネット化すれば、その依存率は更に高まる。少なくとも現状はそうだ。だって、ネット上のモノは「タダ」が当たり前だから。いわゆる「発言力」なんてものは、「どれだけ金を出しているのか」に大きく依存する。全てとは言わないけど。こうなれば、読者の発言力は低下し、広告主の意見が拡大する。こんな状態でも良い物は作れると思うけど、今より割合は減ると考えた方が良いだろうな。
 
 ネットでも金取れば…ってのは、私に言わせると難しいと思う。理由は「課金の手間」だ。モノがそこに存在している場合、「モノを管理している人間が課金も管理する」ことが可能だ。でも、データだとこうはいかない。その結果、「金を払うのにいらん手間がかかる」ことになる。これを解決するのは容易じゃないと思うね。もっとも、これは「何だかんだ言ってモーレツな現金至上主義者」である私ならではの意見かも知れないけれど。
 
 広告費が減っているという現実があり、仮にこの流れが「不況に伴う一過性のモノ」でないとしたら、紙媒体業界に出来ることは「いかに上手に衰退してゆくか」しかないと思う。紙媒体のビジネスモデルが「読者からの支援だけでは食ってゆけない」ものである以上、どーしたってそうなる。そんでもって、「上手く衰退できる」奴なんて誰もいないと思う。競馬ブームが去った後、競馬雑誌がどのように衰えていったのかを注目してきた私の意見に過ぎないけどね。
 
 もっとも、紙媒体が変な形で滅びるのは、広告主にとってもマイナスは大きいと思う。ネットへの移行に関しても、「紙媒体の文化を可能な限り守る」って圧力がある程度働くんじゃないかなあ。最低最悪でも、この世には同人誌という「採算性とか広告主の意向とかと無関係に作られている本」があるので、これを母体にまた最初から「紙媒体業界」を再構築するだけの話だ。その意味では、「お先真っ暗」だとは思わない。ただ…「どのように業界がへこむのか」って、本質的には読者とかクリエイターとか編集とかの問題じゃないと思うだけに、どーなるのかは何とも言い難い。
 
 とまあ暗い予想をお届けしたわけだけど、この予想は「むしろ外れる可能性の方が高い」ので、あまり気にしないでもらいたい。だって私の予想だから(苦笑)。それに、「読者が出来ること」はゼロではないはずだ。ネットなどを活用できる今なら、昔より強固かつ効率的に「読者の意向」を雑誌の作り手や広告主に届けることが可能って気もする。その結果、「上手にヘコんでゆく」ことが可能になるかもね。ま、色々警戒は必要だけど。
 
 なお、「そーゆーお前は何しているんだ」って部分に関しては…いやほら、雑誌は熱心に買っているし、気に入った作品は単行本買っているし、流石に現時点で「立ち読みは止めるべきだ」とはならないんですが。立ち読みを全部購入に変えたら、破産ですよ私は(苦笑)

9月11日2009/09/12 02:54

 諸般の事情により、久々の更新。ちょっと勘が鈍っているかも。その辺はご容赦願えれば。
 
 本日の話題は、GJ31&32号に掲載された、柿崎氏の「『戦国大名』はシミュレーションゲームなのか」について。「戦国大名」絡みの話となれば、やはり私も色々言いたいってコトで。
 
 その前に、まず軽い脱線。32号付録の「入札級関ヶ原」は、以前コマンド誌85号の「同人ゲーム紹介」に掲載されたもののはず。何かしら改訂されているかもしれないけど。このゲーム、以前知人から「家康の勝利得点が無限大なので、西軍が無茶苦茶な入札をしてしまう」って戦法?を聞いたことがある。この点の改訂をしてもらいたい…って話だったけど、これは杞憂、もしくは改訂された模様。実はこのゲーム、「マップ上から落ち延びる」ことが可能である。家康ユニットが伊勢路方面へ全力で逃げ出した場合、西軍がこれを捕獲するのは相当難しそうだ。バリエーションとしてはアリかもしれないけど、勝率は極めて悪そう。「やりたきゃやれば?」って話のようだ。
 
 さて、本題にいこう。柿崎氏の「戦国大名」分析は的確であり、正直言って大筋では特に付け足すことはない。シミュレーション性の低さ、及びその理由については私もある程度承知していたことであり、総論だけ見れば「当たり前のことを」って話である。もちろん、各論部分では実に参考になったけど。
 
 ちなみに、戦国大名20人ヒストリカルシナリオなる意味不明な自作シナリオをプレイした時、東北や九州と言った「辺境」では「自分の生存が手一杯で、天下国家なんて論じるヒマがない」って感想を述べたプレイヤーが続出し、ある意味「当時の戦国大名って、こんなものだったんだろーな」って状態になった。辺境の大名家なんて、本来天下取りなんてまず無理でしょ。
 
 そんなわけで、おおむね異論無し…で片付けては、面白くない。「Advanced戦国大名」が出現しない理由については、私なりの見解を述べておこう。私の個人的意見では、「アドバンスド戦国大名」は、現代的なゲームではない。だからそんなものは出ない。
 
 現代的なゲームとは?鈴木銀一郎大佐が「新・戦国大名」をデザインする時、「2時間以上かかるゲームは、現代的ではない」という理由により、あーゆーゲームになった…ってエピソードは有名である。時間かかって当然のシミュレーションゲームを愛好する層には多少異論があるだろうけど、かく言うゲーマーでさえ、最近はライトなゲームが受けるという現実がある。
 
 時間だけの問題ではない。柿崎氏が看破したように、「戦国大名」は「天下を統一する」ためのゲームである。単に「1番になる」のではない。天下統一、あるいはいずれそうなるだろうという状況を作り上げるのが、ゲームの目的である。このため、勝った奴以外は「大敗」することになる。征服されるか、屈服するかのどちらかを強いられるワケだ。これは同じ負けの中でも、かなり屈辱感が強い。これは果たして「現代的」かと聞かれれば、違うと思う。あくまで「私は」だけど。
 
 ついでに言えば、天下統一は「ゲームの最後に上手く立ち回ったら、そうなりました」なんてやり方で獲得できるモノではない。要求される技量はかなりのものだろう。「どーしても勝てない」なんて奴が出ても、何の不思議もない。実際、私はこのゲームで「天下統一した!」って実感するような勝利を達成したためしがない。プレイ経験は山ほどあるんだけど、途中で必ず躓くのだ。まあ、何が悪いのかはある程度わかっているんだけど、プレイ中にそんな反省はすぐ蒸発しちゃう…って話。よくある話だよね?誰かそう言ってくれ…
 
 戦国大名は天下を統一するためのゲームである。みんなそれが面白くてこのゲームをプレイしている。そのことに異論はない。ただ、そーゆーゲームが複数個必要なのかと言われると、かな~り疑問かな。天下統一というのは、シミュレーションゲーマーにとってさえ「重たい」テーマだ。さらに「戦国大名」は、「戦国時代っぽいフレーバー」まで詰め込んである。これとよく似た別のゲームをプレイしろと言われても、色々抵抗が大きいのは当然でしょ。
 
 余談ではあるけれど、サンセット版「戦国大名」の評判が一部で悪い理由も、一部はコレである。大部分は私を含む再版スタッフのせいだとしてもだ。みんな「自分がやっていたのは、ローカルルールに基づくモノ」だと認めたくないのだ。これを認めると、「良く似た別のルール」を覚える羽目になる。並大抵のゲームでさえそんなのはイヤだというのに、よりによって「天下統一」というしち面倒な作業を要求するゲームでこれは、イヤどころの話じゃないと思われる。古のTAC-CONでプレイされていたルールに準拠する部分にさえ、文句が出てたからなあ。ブツブツ…
 
 つまりはまあ、「Ad戦国大名」なるものは、立派な「誰得」ゲームだってコト。「新・戦国大名」が全くの別ゲームであるように、「天下統一を目指すゲーム」なんて夢のまた夢。夢想するのは勝手だけど、実際デザインしたって異論・反論に押しつぶされてマイナーなモノに留まるだけと思われる。いや、それどころか出版されないんじゃない?構想段階までなら喜んで相手してくれたとしても、実際段階になったら出版元が逃げ出すのでは。
 
 それでも、「戦国大名」を超えるゲームを作りたい!と言うのなら…同人で出すしかないだろな。同人なら売り上げはあまり気にしなくてイイし、何より「ユーザーの意見を聞いてフィードバック」ってコトもやりやすい。そーやって版を重ねてゆき、「これなら」って段階でゲーム会社に持ち込めば、あるいは何とかなるかも。もっとも、その根性と気合いのある馬鹿がいればの話だけど。
 
 なお、言うまでもなくオチは「オレに期待するな」である。ミエミエですいませんね(苦笑)。だいたいだなあ、私にそんな能力があるワケがない。やる気についても同じ。どうも色々誤解されている気がするんだよな…

9月13日2009/09/14 00:50

 先日「戦国大名」を語った後、ふと気になったコトがあったのでそれを採り上げる。題して、「マルチにおいて『1位以外はビリと同じ』って姿勢は、現代的ではないのかも?」である。あらかじめ言っておくけど、今回は「結論」はない。トップになるため無茶苦茶な冒険ぶちかまそうとも、大人しく2着で我慢してチキンとののしられようとも、それは各個人の自由だ。それをふまえた上でお読み下さいませ。
 
 私は「勝つ」ことが大好きであり、勝利のためになら何度負けたってかまやしない…という、結構特異な思考をする人間だ。マルチゲームでもこの思考はあんまり変わらない。無茶苦茶な劣勢であっても、常に「ここから勝つにはどーすりゃいいのか」を忘れないようにしている。そりゃまあ、私の精神力は「惑星面でニケを拾っても、役に立たない」(ゲーム「超人ロック」の話)程度に低いので、時にめげることもあるけれど。正直言って、今更この姿勢を変える気にはならない。
 
 ただ…こういう姿勢が「現代的」かどうかは別問題。いや、プレイヤーの意識としては現代的も何もないと思うけど、今風のマルチゲームって、こういう「トップ以外は負け」って考えでは、プレイしにくいシステムを持つものが主流かも…って話だ。
 
 「プレイしにくい」とは?うーん…感覚ではすぐわかるんだけど、説明するのは難しいなあ。「現代的な」マルチは、「他のプレイヤーを圧倒するような存在になること」を目指すのではなく、「ゲームエンドターンに他の人より少し抜け出していれば勝ち」を目指すモノが多い気がするんだよね。その結果として、「とにかくトップを!」と意識し、そこから逆算してどうこう…って戦略を練るより、もう少し地道にゲームを進めた方が得策になっているような。
 
 この分野の始祖の1つと言われる「ディプロマシー」では、勝利条件は「全欧州制覇」などという、とてつもないものだった。当然、1人のプレイヤー以外はみんな滅ぼされる。実際そこまでプレイするのは大変で、残り3~4人になった段階で一番デカい国が「勝った」としてたように思うけど。「戦国大名」はこれよりマシだけど、他を圧倒して「天下はコイツのものだな」ってプレイヤーが出るまでとことん戦うもの。こーゆーゲームにおいては、「勝ち以外は負け同然」って言葉に説得力がある。だって、本当に同じなんだもの。
 
 コレに対し、より現代的なマルチゲームは、もう少し「地に足付いた」勝利条件を要求することが多い。プレイヤーが滅びるなんてことはごく希で、言ってみれば「ゲーム終了時に、他のどのプレイヤーより少しだけ大きくなる」ことを目指すものが多い気がする。
 
 日本の戦国時代に話を限定するのなら、「天下統一」の野望を叶えてくれるゲームってのは、「戦国大名」ぐらいなものである。「戦国ふぁいと」(ツクダ)も天下統一できたような気がするけど…流石にあまり覚えてないなあ。後は「戦国合戦絵巻」(アドテクノス)も、「天下布武」(GJ別冊)も、「新・戦国大名」(ウォーゲーム日本史2号付録)も、「天下を統一する」ゲームじゃない。
 
 何故そうなのか?これは先日「戦国大名」を語った時に説明したような。「天下統一」は時間がかかるし、「つまんねー!」とブチ切れるプレイヤーを生み、高度な技量を必要とする。これは戦国時代の日本に限らず、いつどの世界を舞台にしたって当てはまる話だ。それともう1つ。「天下統一」って、案外ヒストリカルじゃない。実際問題としては「そんなものは見果てぬ夢」で終わり…ってことが多いからねえ。ヒストリカルな雰囲気に浸りたい…ってプレイヤーなら、天下統一より「史実と比べてどれだけ頑張ったか」が評価されるようなゲーム(「パックス・ブリタニカ」とか)の方がウケるでしょ。
 
 もっとも、「ナポレオニック・ウォー」(GMT)みたいに、ヒストリカルっぽい味付けが強い(カードドリブンだし)上に滅亡なんてしないにもかかわらず、「1位以外は負けです」とルールに堂々と書いてあるゲームもあるけどね。あれは全プレイヤーが馬鹿…もとい、漢じゃないと面白くない。ナポレオンは欧州制覇の野望を、墺・普・露はパリ占領の夢を最後まで追求しなくちゃ。ついでに言えば、ナポレオンは勝利が絶望的になったとしても、芸術的とまで言われた「国内戦役」を再現すべく、気合いを入れる必要がある。何?そんなテンション高いのはお前だけだって?
 
 現実では、「1番でなけりゃビリと同じ」と考える奴は少数派である。その意味では、昔のそーゆー勝利条件になっていたゲームの方がヘンだって話はある。おそらくは「ゲームだからこそ、そこまでやらないと」って発想の産物なんだろうな。ただ、これはどうやら現代的じゃないようだ。流行り廃りとは無縁そうなこの業界だけど、何だかんだ言って「時代」を感じることもあるんですよ。
 
 もっとも…システムがどうであろうと、「やっぱり1位でなきゃ!」と考えるのは勝手だ。私の場合で言えば、「勝たなきゃ意味がない」競馬を趣味としているだけに、そーゆー意識は強いですね。多分この先ずっとそうだ。多少やりがいが無くなったのかもしれないけれど、それでも「勝利」という称号の価値は不変だと思うなあ。
 
 とはいえ、ゲームをデザインする場合には、これは多少意識した方が良さそうだ。「1位以外なんて、単なる負けだろ?」って意識だけでマルチゲームをデザインすると、ウケないシロモノになりかねないので。カネが全てとは言わないけど、デザインするからにはある程度売れて欲しいからね。
 
 もっとも、私としては「1位以外は全部負け」ってゲームをデザインして欲しい。私はそーゆー人間だから。世間の評価がどうこうって話は関係ない。私は評価する。「だからどーした」って話は大いにあるけれど、それを考えたら負けだ。「新・戦国大名」をプレイして、「面白いゲームだけど、何かが違う!」と感じたアナタ、私同様そーゆー気持ちを大切にして、「現代的じゃない」ゲームを待ち望んでみては如何。
 
 なお、本日もオチは「だから、オレに期待するな」である。もう少しヒネリはねーのかと言われそうだけど、他に思いつかないんだから仕方ない。私の才能なんてその程度であり、変な期待をかけられるのは…(以下略)。

9月17日2009/09/17 23:39

 更新が滞っています。まあ、色々あるんですよ私にも。イケナイことだとはわかっているので、何とかしたいんですけどねえ…
 
 本日の話題は、「ふと疑問に思ったこと」を紹介しようかと。基本的には「何でかね?」で終わりなので、それ以外は蛇足同然。そーゆーモノを付けずにいられないのが私ってコトで、ご容赦願えればと。そんなわけで、「夜に営業だけしていればいい店が、昼も営業しているのは何故か?」を考えてみたい。
 
 夜にだけ営業していればいいはずの店と言えば、代表はカラオケボックスではないかと。居酒屋はまだ「ランチ営業」が見込める。地域によるんだろうけどね。マンガ喫茶は「安上がりに1晩過ごす場所」ではあるけれど、昼の利用客も結構多い。でも、カラオケボックスは…多分、昼の利用は相当少ない。
 
 それを象徴するのが、「平日昼の料金」だ。アホみたいに安い。アレで成り立つのか…と思うくらい。ただ、単純に「経費削減」だけ考えたら閉店した方がどう考えてもプラスなので、料金収入以外も含めて「何らかの理由で成り立っている」のは間違いない。その理由って何なの?
 
 私はカラオケボックスの経営に詳しいワケではない…どころか、経営そのものに詳しくない。よって、これから先は単なる推測。ネット探せば「その理由」がどっかにあるかもしれないし、そうでなくても「詳しい奴」(どこかにはいる)に聞けばわかるはずではあるんだけど、そーゆーコトするほど「知りたい」ワケじゃないので、推測をいくつか語って終わりにしたい。
 
 推測その1。アレで成り立ってしまう。逆に言えば、夕方・夜間はボッタクっている…てワケでもないんだろうな。まあ多少は「強気の料金設定」していると思うけど。その理由は「人件費」かな。昼は「客が少なく、しかも大抵酔っぱらいじゃない」ので、人間を多数配置する必要がない。おまけに深夜給などは不要だし。「人間とは、基本的には高機能で高コスト」だから、人件費を節約できればアノ料金でも成り立ってしまう…ってもの。マンガ喫茶が「客1人1時間につき、300~400円程度」で経営が成立している(深夜はなお下がる)ことを考えれば、この推測にもある程度根拠はある。
 
 余談だけど、この「推測その1」が正しいのであれば、「店員呼んでもなかなか来ないのが当たり前」という低サービスっぷりだけど、料金は昼間のものに毛が生えた程度…って店でも「やっていける」可能性がある。ただまあ、夜の客の大半は「元気な酔っぱらい」(マンガ喫茶に来るのは「元気のない酔っぱらい」)だから、こーゆーシステムは無茶があるんだろうけど。
 
 推測その2。閉店する意味が薄い。真っ昼間に閉店しているってのは、あんまりコスト削減にならないのでは…ってもの。カラオケボックスって、いわゆる「店での仕込み」はあまり必要ない。そのため、「閉店はしているけど、店員がいる状態」ってのは意味がない。かといって、昼間「誰もいない状態」ってのは色々不都合があるのは間違いない。店員を置く以上、営業してもしなくても「全体的な経費」は似たり寄ったりだとすれば、閉店する意味は薄くなる。多少なりとも回収できた方が良い。
 
 この推測が正しいかどうかは、「電気代」次第かもね。カラオケボックスで「一番大事な経費」は電気代だろうから。料金体系がどうだの、開店している場合と閉店している場合の「使用電力の差」(アノ機械は待機電力食いそうなので、閉店しても電気代はさほど節約できない可能性がある)だの、果ては「スイッチ入れっぱなしと、オン・オフを繰り返すのではどちらが機械に優しいか」だのを考える必要がありそうだ。
 
 推測その3。昼間閉店するのは「リスク」がある。これは、「昼間閉店すると、荷物運び込みやらメンテの業者やらに対応できなくて…」って話ではない。それはさっき考察したことだから。そうではなくて、とにかく昼間に「閉店」ってカンバン出すのはマイナスだって話。
 
 昼間閉店するリスクとは?とりあえず考えられるのは2つかな。まずは「犯罪リスク」。泥棒と言えば夜陰に忍んで…ってイメージがあるけど、実際は昼間だって結構危ない。大規模な組織で機械ごっそり盗み出す…なんてタイプの盗難だと、「業者のふりして周囲の目を誤魔化せる」昼間の方がむしろ危ないのかも。また、盗難とまではいかないけど「閉店しているのをいいコトに、店先でたむろしてゴミ散らかす」といった軽犯罪被害に遭遇するリスクもあるかもね。
 
 もう1つは「イメージ戦略上の損失」。昼間に閉店していると、「ここにカラオケボックスはない」と誤解される可能性がある。昼間見た時のイメージって、結構印象に残るからなあ。さらに、昼間営業してないってのは無意味に「いかがわしい」感が出る気が。夕方訪れる客にとってはあまり関係なくても、周辺住民に嫌われる可能性が出る。あーゆー商売だからって、「周辺住民のことなんて知るか」とは言いにくいでしょ。昼間利用する奴のうちかなりの割合が「周辺住民」だろうから、「周辺住民対策」としては営業しておいた方が無難って気がする。
 
 もし仮に「昼間の営業が大赤字」だとしたら、この推測が当たっていることになりそうな。具体的な理由は別にあるのかも知れないけれど、単純な「経費と収入」以外の何かが理由なんだろう。「盗難」「特別な清掃」「宣伝」「地元住民との軋轢」なんてものは「うまくいかなくなって初めて目に見える」ものであり、日々の収支報告だけ見ていたんじゃわからないからなあ。そーゆー「何か」があるのかもしれない。
 
 とまあ、色々推測を挙げてみたわけだけど…当然「真の理由」は知らない。知らない以上、この話はこれでおしまいだ。ただまあ、「どれが正しいと思うのか?」と聞かれたら、一応「推測その1」じゃねえかなと言っておく。マンガ喫茶がアノ料金体系で成り立っている以上、「客を放置しておいてかまわない」のならば、実は「昼間の料金」でも営業は成立するような気がする。いくらガラガラと言っても、「それで成り立つ」程度には客いるんじゃねえかなあ。昼間ヒマな奴って、意外といると思われるので。
 
 物事の価格ってのは、細かく見てゆくと色んな理由で決まっている。一応は「合理的な説明」があることになっているけど、部外者から見ればワケわからんものも多いと思う。そもそも、有名な「神の見えざる手」って言葉も、よ~く考えると何の説明にもなってない(「何だか知らないけど、とにかくそーなってんだよ」って発言とドコが違う?)気もするし。ただ、一応は気にしないとボラれたり、発言権乗っ取られたりするんだよね。
 
 そんなワケでカラオケボックスの昼間料金について考えてみたんだけど…でも、あれはやっぱり不思議だよなあ。誰かもっと役に立つ説明してくれないものかね?

9月22日2009/09/23 00:38

 土日はMiddle-Earth東京支部例会。私は「D-DAY」(エポック/サンセット)をプレイし、英軍で2度も海に追い落とされた(苦笑)。いけませんねえ。修行不足じゃ!(これ関連のネタは後日)。
 
 本日の話題は、北朝鮮が文句付けてきたらしい「H-2B打ち上げ」について。あえて私も文句付けます。北とは別の意味で。あれは正直「どうかと思う」トコロがあったので。
 
 H-2B打ち上げは、かなりうまくいった。あれだけ大きなロケットを問題なく打ち上げるのはタイヘンであり、それを成功させたことは見事と賞賛して良い。北の文句は言いがかりに等しく、他に文句を付ける奴はいない…と考えるのが普通である。でも、私はあえて文句を言う。アレは別のトコロがマズいと。
 
 何がマズいのかって?あくまで「私が思うに」だけど、アレは立派な「大バクチ」だから。日本のロケット打ち上げ技術をもってしても、あれは「かなり危険な行為であり、失敗する可能性は低くなかった」から。成功する自身があったとしても、「最初の打ち上げ」に結構大事な荷物を選択したのは、やはり「褒められたことじゃない」と思うんだな。
 
 何故大事な荷物を打ち上げたのか?これは…推測だけど、「試験打ち上げをケチった」からじゃないかなあ。こーゆーことケチるのは、どうかと思う。成功したからいいようなものの、あれで失敗していたらタイヘンなことになっていたからなあ。こーゆー部分に余裕を持たせないのは、日本人の悪い癖だと思うんですけどね。
 
 あと、焦りもあったかも知れない。半島の連中(南北共に)がロケット打ち上げに興味を示しているのは間違いない。北はICBMと区別が付かず、南も打ち上げ失敗したのは事実だけど、放置しておけばいずれ「衛星打ち上げビジネス」に参加してくる可能性がある。そうなった時、日本のロケットは「コスト高いのに、米・露・中(有人打ち上げ成功国)ほど信用できない」ってんで後れを取りかねないからなあ。それに匹敵する「デカいアピール」がやりたくなったのかも。そーやって焦って結果求めに行くのは、良くないと思うんだけどね。
 
 成功したんだから…ってのは、言い訳にならない。確かに、技術面だけ見れば「偉業」であり、賞賛に値する。でも、それに奢って似たようなコト繰り返していれば、いつか痛い目に遭う。日露戦争に勝ち、「大国相手でも戦争できる、勝てる」と勘違いし、米国にケンカ売った結果はどうなった?成功は成功、だけどバクチはバクチだ。結果良ければ全て良し…で片付けるのは、良くないと思うんですけど。
 
 だいたいだなあ。ここで何度か叩いているスペースシャトルだって、最初の打ち上げの際には「素晴らしい」「新時代の到来だ」と賞賛されたのだ。実際、そう評価するに値する「偉業」ではあった。でも、最終的には「技術的に冒険しまくった」ツケを山ほど支払わされたわけだ。同じ道を日本がたどらないって保証はない。
 
 今回打ち上げたのは、宇宙ステーション「ISS」用の貨物。言ってみれば「一般貨物の輸送」だ。こーゆー「仕事」に、派手なコトやらかす必要はあるのか?一般常識で考えて、「F1ドライバー並みの技術を必要とする」貨物輸送計画ってのは「どうかと思う」のでは。派手な技術アピールなどいらない、地道で堅実に運んでくれるのが一番ではないかと。
 
 ついでに言えば、「あれだけ大きなロケットなら、有人打ち上げも…」という声が出ているのは、どうかと思う。確かにあの大きさのロケットなら、有人打ち上げも可能だと思われる。そーゆー夢を持つのが悪いとは言わない。けど、本当に有人打ち上げをやるつもりなら、より慎重にならないと「危ない」気がする。失敗の度合いによっては、「こんな杜撰なシロモノに人間詰め込んだのか!」ってんで評判落とすことになる。少なくとも私は「日本の有人打ち上げ計画」なるものは聞いたことがない。H-2B打ち上げが成功したから…なんて泥縄式の計画を立てるのはどうかと思うぞ。冒険が許された「宇宙開発黎明期」と一緒にしてもらっちゃ困る。
 
 なお…「H-2Bによる有人打ち上げ」は、チャレンジする価値があるとは思う。思うけど、「今度はより慎重にやってくれるのなら」って条件付きかな。ロシアが未だにソユーズなどという「骨董品」使っているのは何故だと思っているのやら。なんか誤解している奴が多いけど、技術面では「アレを超える」ロケットをロシアは開発済みである。単に「それに置き換えて得られるモノ」より、「使い慣れたモノを使い続けて得られるモノ」がデカいと判断しているので、未だに使い続けているだけだ。ドコをどう考えたって「宇宙開発技術の総合力では、世界第2位」のロシアにしてコレなのだ。H-2シリーズ全体として考えてすら、「まだ不安を払拭したとは言い難い」って事実を忘れちゃいけませんね。
 
 H-2B打ち上げ成功は、大いなる技術的飛躍だと思う。これ自体は悪いコトではない。けど、宇宙開発において重要なのは、実は「大いなる技術的飛躍」よりも「段階的な積み重ね」ではないかと。理由は知らないけれど、今回日本は「やった方が良い試験打ち上げ」をすっ飛ばし、技術的飛躍に手を出した。成功したおかげでうやむやにされているけれど、これは疑問だと思うな。ついでに言えば、成功したからって浮かれ気味のマスコミも。
 
 H-2B打ち上げには成功し、韓国のロケット(KLSV)は失敗。これにより、しばらくは「衛星打ち上げビジネス」は安泰だと思われる。ただ…韓国の失敗は「産みの苦しみ」として納得できる範囲であり、日本の成功は「不必要と思われるバクチ」の産物だって気がすることも確か。これが長い目で見てどうなるのか、予断は許さないって気がするな。
 
 しかしだねえ。北も「こーゆー建設的批判」込めて日本に忠告するのならともかく、「軍事利用の道を切り開いた」などと批判するのは…言いたいコトはわかるけど、ヒガミ根性がミエミエだな。大人しく黙っていればいいものを、言わずにいられないってトコロがアノ国らしい。もっとも、打ち上げに浮かれている人間にとっては、私も北も「似たような存在」なんだろうな(苦笑)。

9月24日2009/09/24 22:44

 何だか知らないうちに、Google Chromeがバージョンアップしていた。いつの間に。そのうちキチンとバージョン管理やっておかないと。
 
 本日の話題は、「音源としてのPC」としよう。知人から相談受けたので。なお、実は私はソコまで詳しいワケじゃないとお断りしておく。もっとも、ドコにどう相談すればいいのか、かなり悩ましい話だとは思うけど。
 
 ここで言う「音源としてのPC」は、オーディオにそれなりのカネ突っ込む趣味を持っている人間向けのモノとする。私のように「PCに高級ヘッドホン付けて喜んでいるだけ」って人間向けの話ではない。よって、ほとんどの読者は置き去りにします。覚悟のホドを。
 
 音源として考えた場合、実はPCは「案外優秀」である。最大の理由は「振動対策が不要」ってトコロか。CDの場合は直接回転するメディアから信号を読み取っているので、振動による信号のブレが生じやすい。PCのHDDも回転しているけど、直接HDDから信号読み取っているワケじゃない(信号読み取りと再生が非同期だから)ので、この部分は安定している。
 
 もっとも、ネックも多い。ぶっちゃけ一番の難点は「PC自体が出す音」である。電源・CPU・本体などにはファンが付いていて、コレが音を発する。タワー型PCの場合、フルファンレスPCってのは少し考えにくい(ファンレス電源なんてあるのか?)ので、せいぜいが「静かなファンを使う」程度。もっとも、「静音化」を謳ったPCは「蛍光灯の作動音より静か」ってレベルまで静音化可能らしいので、解決不能ではない。
 
 他の難点は、電波雑音かなあ。PC内部の電波雑音は「相当なレベル」だとされているからねえ。もっとも、私は「何が発生源で、どーすりゃ減らせるのか」に詳しいワケではないので、あまり深くは語れないけど。
 
 PCを音源として考えた場合、まず考えるべきなのは「静音化」である。まずはとにかくファンの音を減らす。グラフィックカードはファンレスのものを選び、CPUは「最新だけど性能はショボ目」のもの(発熱量が減るので)を選ぶ。CPUファンは静音タイプ(可能ならファンレスタイプ)を選ぶ。実は一番大事なのは電源なので、静かなモノを選択する必要がある。HDDも五月蠅いので、まだ高いのを承知の上で「フルSSD」も視野に入る。
 
 機能面では、可能な限り性能を落とす。その方が熱を発しないから。熱を発しなければその分「冷却装置」の負荷が減るし、電波雑音も減る。ある意味「ドコまで性能落とせるか」を追求するコトになる。かといって古い部品は使っちゃイケナイ。古い部品は「同じ仕事量なら大量の熱を出す」ので、性能を落とす意味が無くなってしまう。
 
 実はこの努力、ノートPCの駆動時間延長と理屈は同じだ。そう考えると、据え置き型のPCをどうこうって話をするより、「音楽再生用のノートPC」を購入した方が早いかもしれない。音楽再生用のソフトなんて「負荷は軽い」から、それこそネットブックが適切かもしれないくらいだ。
 
 ネットブックじゃ拡張性が…という意見は、実は的外れではないかと。拡張性が気になる最大の理由は「サウンドカード」だろうけど、今のPCにそんなモノは必要ないって話があるので。その昔のPCは本体だけだとピープー音しか出なかったので、マトモな音楽再生させようと思ったらサウンドカードが必要だった。でも、今のPCは「必要な音を鳴らす機能」がオンボードに搭載されているので、特別いらないって話はある。
 
 今時のサウンドカードってのは、かな~り特殊な用途で使用するモノらしい。まず考えられるのは洋ゲー。洋ゲーってのはものすごーく負荷が高いソフトである。「PCが性能向上した分だけ負荷を向上させる」のが当然だからして。こういうソフトを動かす場合、サウンドカードを使ってCPUの負荷を減らしてやると全体の動きも軽くなる。けど、音楽再生だけをメインに考えた場合、CPUの負荷なんてたかが知れているので、こーゆー使い方は無意味。
 
 もう1つの用途は、音楽制作をする場合。これは私も詳しくないので細かくは語れないけれど、音楽製作用の機材に接続可能な端子があるかどうか…って理由で必要になるらしい。これまた、「聴いて楽しむ」専用なら不要だ。
 
 サウンドカード抜きで満足な音が出るのかって?まあ、そのままスピーカやらヘッドホンに接続しちゃったら、不満が出るかもね。出力はそう高くないし。ただ、だったらサウンドカード使うより、アンプに接続した方が良い。「サウンドだけを楽しむ」って観点から考えた場合、サウンドカードとアンプってニアリーイコールだと思う。そんでもって、「性能限界」を考えたら、サウンドカードなんて「ショボいアンプ」と同義語ではないかと。だったらノートPC+デカいアンプの方が、サウンドカードだけよりずっと良い音が出るはず。まあ、サラウンドだ何だといった機能面にこだわるのなら多少話は別かも知れないけど。
 
 ソフト面ではどうか?まずOSだけど、正直何でもいい。ただまあ、せっかくのPCなんだしネットに接続ぐらいは…と考えるなら、比較的新しいOSを使うべきではある。Windows系列ならXPなりVistaなり7なりを使えばいい。現時点だとWindows 7を待つのが無難か。なお、メモリは「いかに減らせるか」勝負だって話がある(アレも電気を食うから)ので、64bit化する価値があるかはビミョー。一番大事な音質にはカケラも影響しないと思われるので、お値段の違いによりその価値ナシと判断して良いのでは?
 
 ただ、OSをMac OS Xにする価値はあるかも。単純にiTunesとの親和性から。音楽再生用ソフトとしてiTunesを選ぶ必要はないかもしれないけど、まあ一般的なのは確か。一般的なPCとしての機能は「どれだけ削除できるか」が課題になるだけなので、値段面で折り合いが付けばMacでも問題はないはず。ついでに言えば、オーディオとして考えるならiBookぐらいの性能&値段は出した方が無難だって話はある。この辺は「PCとして何を求めるか」によって大きく変わってくると思うけど。
 
 再生ソフトは、iTunesでもWindows Media Playerでも、その他のソフト(フリーなども含む)でも、何でもいい。とりあえずで言えば、iTunesじゃ駄目だって理由はない。ただまあ、ソフトごとに「再生のクセ」はあるらしいので、こだわるのなら聴き比べてみる価値はあるかもね。
 
 PCをオーディオとして利用するってのは、さほど一般化していない。PCに「音がうんたら」って宣伝文句をつけている場合があるけれど、そーゆーPCがどんなレベルのスピーカーに接続されているのかを考えれば、「しょせんその程度」と言っていい。私の基準で考えて「マトモなスピーカ&ヘッドホン」を入手しようと思ったら、オーディオ専門店(大型店のその手のコーナーでも可)に行くべきなんだろうけど、そうするとPCの話が出来ない。両者に詳しい奴は…いるらしいんだけど、情報漁るのは楽じゃないような。
 
 それでも情報が欲しいと言うのなら、Webを漁りまくるとか、秋葉原の「ブッ飛んだPC専門店」(かなり減った気はするけど)・そーゆー話に対応してくれそうなオーディオ専門店(これまた秋葉原なら何とかなるかも)のどちらかを探し出す(ますソコから始める必要がある)とか、果てはコミケで同人誌を漁る(探せばありそうなモノだ)とか…ってなるのかねえ?オーディオ専門誌にそーゆー特集が組まれていないかとか、DYM(PC使った作曲のこと。Desktop Musicの略)専門誌(少なくともPC雑誌の別冊ではあった)を読んでみるとかすればいいのかも。いずれにせよ私は詳しくないけどね。
 
 なお、本来ならば「音源としてPCではなくコンシューマー機器を使用する」とか、「Apple TVはどうよ?」とか、「リモコン代わりに無線LANを組んで…」とかいった話題にも触れるべきなんだろうけど、詳しくないので全て却下。しょせん私は「PCにちょっといいヘッドホン直結しただけで喜んでいる」レベルであり、マニアではないのだからして。

9月25日2009/09/26 03:04

 Google公式ブログ日本語版は更新遅いよ!テスト版のChrome(Devチャンネル)の最新版は4.0.213.1(勝手にアップデートしてた)なのに、まだ4.0.211.7の情報しか掲載してねえ。早く変更点をアップしやがれ。どーせいい給料もらっているんだから。
 
 知人のブログ(リンクあります)が「連続1000日更新」なるものを達成したらしい。普通なら「めでたいねえ」で終わりだけど、これを機に「ブログを更新するのは楽しいことなのか?」という疑問に答えを出したくなったんだそうな。そこでまあ、私なりの意見を述べてみようかと。もちろん、一般論で言えば長くなるので、向こうのコメント欄ではなくココで述べます。
 
 私は「継続は力なり」をモットーの1つにしているので、基本的に「続けるべきか?」と問われたら、続けるべきだと答える。何事も「継続して初めてわかること」がある以上、まずは続けるコトを考え、それが見えてきてからどうこう…って話だと思うので。そーゆー意味では、私に「ブログを続けるべきか?」と問うのは、あまり意味がない。返事はわかりきっているので。
 
 ただまあ、「そんなコトはわかっている」可能性は高い(そもそも私宛ってワケじゃないし)ので、ここでは少しヒネった回答を。何をもって「ブログを更新するのは本当に楽しいことなのか?」という疑問が湧いてきたのかは推測するしかないけど、「この辺じゃねえか?」って部分に私なりに意見を述べよう。
 
 まずは偶然発見した、このブログを見て欲しい。更新の大敵の1つ「マンネリから来る倦怠感」について語っている。知人のブログはここで言う「文系ブログ」に属するモノなので、更新が楽しいか疑問に感じるようになった理由がこの辺にあってもおかしくはない。なお言うまでもないことだけど、ここで言っている「マンネリ」は、更新している作者自身が感じているかどうかが問題になっている。よって、私が知人のブログに「マンネリだなあ」と感じているワケではない。そこは誤解しないように。読者の感じるマンネリ感も問題だけど、作者自身が感じるマンネリ感はより深刻でしょ。
 
 正直言って、「作者が感じるマンネリ感」は、このブログでも大敵だと認識している。そもそも、開設当初に「なるべく多彩な話題を」と志した理由からして、マンネリ感の打破が理由の1つだ。1つのテーマについて書き続けようとすると、飽きたりマンネリ感が出たりしかねないからなあ。「あまり構えず、気軽に更新し続けるには」どーすりゃいいのか考えた末、色んな話題を扱うと決めたのだ。
 
 もっとも…実を言えば、私も「マンネリ感」は感じている。それなりに長く続けてきたからなあ。いくらかは故意にやっている部分もあるんだけど、ある種のパターン化が生じ、「結局似たような話」に終始しているような…って感触を持つことは多い。時々色々試してみて打破を狙ってみたりもするけれど、正直成功しているとは…
 
 ただ、私はマンネリを比較的ポジティブに捉えている。要は「どこが悪い!」と開き直っているだけだって話はあるんだけど。ただ、こういう「マンネリ感」ってのは、結局「更新している奴が同一」だってことが原因である。多少目先を変えたって、「自分」から逃げることは出来ない。能力以上のことは出来やしないし、しょせん同一人物がやっている以上、ある種の「パターン化」から自由になるのは難しい。何かの拍子に「生まれ変わったように人格・思考・趣味が変化する」なんてことは不可能ではないけど、難しい。
 
 私がブログを続けている理由は、ごく簡単に説明するなら「それが楽しいから」である。今まで何度も「読者置き去り、オレが書いていて楽しいネタを扱うぜ!」と吼えているわけで。ただし、ここでいう「楽しい」は、ごく普通の趣味~読書なりTV鑑賞なりゲームなり競馬なり~といったモノとは少し異なる。「更新しなきゃ」という義務感とまるで無縁ではないし、「何でオレはこんな苦労を…」などと感じる日もある。正直、ごく単純な「楽しい」を目的にするのであれば、このブログはとっくに閉鎖していると思う。
 
 それじゃ何が「楽しい」のかって?言葉にすると誤解されそうではあるんだけど、それを承知であえて言おう。「自分の書いた文章を読むのは、楽しいから」だ。楽しいと言うよりは「ほっとする」とか「落ち着く」の方が近い気がするけど。出来によっては「更新失敗」扱いするし、アップしたとしても「出来が悪いなあ…」と落ち込むことは多いし、後日読み返して全部削除したくなることすらある。それでも、わかりやすく要約するならばこの言葉になる。時にマンネリを感じてうんざりすることもあるけれど、全体的には「誰が何と言おうとも、オレの書いた文章はオレにとって相変わらず面白い」と思うようにしている。
 
 ブログってのは、一応は「創作物」である。たとえパクリだらけであっても、「何をパクるのか」を決めるのは作者だから、広い意味では立派な創作物だ。こういうものは、時に残酷なまでに「自分」を反映する。「つまらんモノしか書けないのは、作者自身がつまらん人間だから」という言葉がある(良く聞く気がするんだけど、最初に言ったのは誰だろ?)けど、それはかなり当たっていると思うな。少なくとも、「読者があるブログを面白いと思うかどうかは、読者が作者を面白いと思うかどうかにある程度依存する」のではと思う。
 
 ということはだ。「マンネリ感を感じる」ってのは「つまらない」と似た意味を持つので、ブログ更新がつまらなくなったと言うことは、場合によると「読者である自分自身が、作者である自分自身をつまらなく感じているから」かもしれない。要は「最近自分自身がつまらなく感じているから」だってことだね。かつて面白かったけどつまらなくなったのか、実は元からつまらなかったのかはさておきだ。
 
 人間ってのは贅沢な生き物なので、何かの拍子に「自分自身がつまらなく感じる」ことはある。もっともソレを認めるのはイヤなことなので、直接認めることは少ないと思うけどね。ただ、「ブログ更新がつまらなく感じる」ってのは、自分自身が自分をどう感じているかのバロメーターになるかも。更新が苦痛になる理由なんてのは山ほどあるので、必ずしもコレに該当しないとは思うけど、それでも「最近の自分をつまらなく感じていないか?」と自問自答するキッカケにしてもいいような。
 
 かく言う私の場合、ネタが見つからない時は「最近つまんねー生活送っているからかなあ…」と自省することが多い。ただまあ、深く考えても何かが変わるワケじゃなさそうなので、「ネタ発見のため、感度上げなきゃ」と考えて終わりにしているけどね。ノリが悪い時には、あえて更新しない。気持ちのアップダウンなんて良くある話、「なんかつまんねええなあ…」と思ったら、無理はしない。下手に無理すると、深刻な自己嫌悪に陥りそうなので(苦笑)。
 
 とまあ、色々偉そうなことを語ってきたわけではあるけれど、よく読み返してみると「どーすればブログを続けられるか」って話にはなってないような気がする。もっとも、そんなものは純粋に個人の問題だ。叱咤激励が効きそうな理由でどうこうって話ならともかく、とりあえずはそーゆー理由で言い出したワケじゃなさそうだ…ってのは感じられるからなあ。とりあえず「アレが原因か?」と思い当たるフシはあったので、それを私なりの言葉にしてぶつけてみただけ。後は当人の問題だ。
 
 なお、今回の話は思いっきり「心に棚を作れ」(「炎の転校生」の名言)を実践した結果なので、私自身のことはスルーしていただければ。いやもう、さっきから心の棚がミシミシ言っているんですけどね…