8月7日2008/08/08 03:08

 本日は何となく「固い」話題を。「ルール違反」なるものについて語ってみたい。とっかかりはこの色なんだけど、むしろ別方面の話題が中心になりそうなのでこの色で。
 
 ルール違反とはどんなものなのか、イチイチ説明する必要はないでしょ。みんな直感的にわかっていることだと思う。それで片付けてしまっては話が面白くないので、あえて逆説的な意見を述べてみたい。「人々がルール違反だと言っている者の大半は、実はルールに従った行動である」と。
 
 何を馬鹿な…で片付けるのは簡単だ。でも、立場によってはこういう考え方も必要じゃないかなあ。よって、何でこんなコトが言えるのか、どんな立場の場合はこういう考え方が必要になるのかを解説したい。
 
 こういう場合、わかりやすいのはスポーツのルールだろう。大雑把なモノは誰でも知ってるから。野球は案外ルールが複雑なので、サッカーを例に出そう。ハンド。サッカーにおける有名な「反則」ですね。ハンドってのは「手(腕)でボールに触れること」であり、これをやっちゃったら、「相手に直接フリーキックを与える」ものだ。だって、ルールにそう書いてある…ってことは、ハンドは「ハンドとはどういう状態で、それが起きた時にはどう処理するのか」ルールに書いてあり、それに従った処理が行われているわけだ。あのー、これのドコがルール違反だって?ルールに従っているじゃん。
 
 いやまあそれは…と言いたい気持ちはわかるけど、しばらくその気持ちを堪えてもらいたい。スポーツにおいて我々が「反則」「ルール違反」だと思っているモノは、いわゆる「罰則規定」というルールに従った行動である。該当する状況になった(引き起こした)時に「罰」が与えられるので「反則」と呼ばれているけど、これもれっきとしたルールの一環であり、これに従った処理が行われるだけの話だ。この見解に従った「真の意味でのルール違反」は、たとえば罰則規定が適用される局面なのに、それを無視してプレイが継続するような場合を指す。これは「反則」と言うよりは「インチキ」扱いされるものだね。
 
 そう言われればそうかもしれないけどさあ…と反論したい?そりゃそーだ。私もまさか「こういうものをルール違反と呼ぶのは止めよう」なんて主張はしない。ただ、何で我々はそう呼ぶのか?これは、我々が「ルールを守る側」であって、「ルールを破りたい側」「ルールを作る側」「ルールを裁く側」でないから、そう感じるのだ。
 
 ルールを守る側にしてみれば、罰を受けるのは避けたい。当たり前の話だ。よって、罰則規定に触れる行動はなるべくやらない方がいい。こういう「ごく当たり前のこと」があるので、罰則規定に従ってしまうものは「ルール違反」と呼び、「やっちゃいけないもの」とされる。普通に考えるのなら、これでいい。
 
 ただし、「普通じゃない」場合は簡単に想定できる。まずは「ルールを破った方がマシな場合」。サッカーの例を続けよう。キーパーが飛び出した結果、躱されてしまいました。DFの1人が必死に走ってゴールマウスで1対1って状況に持ち込んだけど、シュート打たれました。このシュート、手を出せば止められそうです。この時、DFは「手を出して止める」べきか?
 
 実際のサッカーのことはとりあえず忘れ、ハンドのルール定義だけを考えよう。ここで手を出せばPKを与える。こうなったら1点は確実。けど、ここで手を出さなければ確実に1点だけど、PKは失敗する可能性が(多少は)ある。よって、「手を出すのが正しい行動」でしょ。例にあるような「1点確実」ってプレイの前には、PKすら「与えて大正解」となるのだ。なお、実際こんなコトした場合、PKより更に重い罰則を与えられる可能性がある(レッドカードで1発退場とか)ので、得失は相当ビミョーになってくる気がするんだけど。フツーはココまで追い込まれることは珍しいけど、あり得る話として想定することは可能だね。実際、サッカーはどちらかと言えば「反則も技術のうち」とされる。
 
 「ルールを作る側」なんてもっと希…と言いたいけれど、この色の話題について行ける人間はそうも言ってられない。「ゲームをデザインする」「テストプレイに付き合って、修正した方が良い点を見つける」「ルールブックを書く」といった作業を行う場合だけでなく、「このゲームはオカシイ点があるので、ルールの改定を提唱してみる」ってだけで「ルールを作る側」になっちゃうからねえ。
 
 ルールを作る側の場合、「罰則規定は、ルールに従った状態である」って意識は必要である。何故か?「罰則規定=やっちゃイケナイこと、誰もやらないこと」なんて意識でいると、「故意に罰則規定を適用することによって、状況を有利にするワザ」の存在に気がつきにくいので。これは、罰が重ければ回避できるとは限らない。下手をすると「罰が重いのでウラワザとして強力であり、対抗手段が存在しない」なんてコトになりかねないのだ。ゲームの場合、究極の罰である「違反したら反則負け扱い」とし、うっかりミスは状況が許す限りやり直しを認めてもいい…とした方がいいのかもね。
 
 ゲームの話をちょっと続けよう。この世界、「よ-く考えると奇妙な伝統」がある。スタック違反だ。スタックのルールに限って、「違反が見つかった場合、このように処理しなさい」って規定(大抵はユニット除去してスタック制限を守るようにしろってモノ)があるコトが多い。これは、よく考えてみるとヘンな話だ。たとえば「間違って移動力以上に移動した」とか、「戦闘比を勘違いした」場合どーしろこーしろって指示はないのが普通(暗黙のうちに反則負けかやり直しを求めていると考えられる)なのに、このルールだけ「違反時の規定」が設けられているものが多い。
 
 まあ、歴史的な理由はわかる気がする。チェス・将棋といったゲームにスタックって概念はないので、「うっかりミス」しやすかった(少なくとも、「する可能性が高い」って判断があった)こと、また「スタック違反をずっと続けてしまった結果、やり直しが利かない」って場合が結構多かったから、いちいち設けられたのではないかと。更に言うなら、このルールは「うっかりでも故意でもないけど、違反に追い込まれる」ことがあるし。
 
 ただ、今のゲーム界においてこのような規定が必要かどうかは、考察する余地がある。ある程度この趣味に慣れた人間なら、スタックを扱うことはさほど苦痛を感じない。「うっかりミス」の可能性はゼロではないけれど、このルールだけ特別扱いする意義は薄れているのでは。その結果、このルールは「故意のスタックオーバーを行って良いという許可」だと思っている人間も少なくない。罰則は決して軽くないけど、それでも「実行した方が利益が大きい」って局面は多いのだ。
 
 このルールを改善しろとまでは言わないけれど、「故意のスタックオーバー」と「うっかり・あるいは追い込まれてのスタックオーバー」の区別については意識した方がいいのかもしれない。「ルールはしつこいぐらいで丁度良い」って思想の私としてみれば、常に「このゲームは故意のスタックオーバーが許可されている/許可されてない」のどちらかを表記しろ!となるけど、そこまでしなくても記述方法次第で解決可能ではないかな。なお、スタックオーバーについて規定がある場合、故意のスタックオーバーが許されてると考えるべきか否かは…とりあえず私は「許されている」と思っている。
 
 追い込まれるコトなんて希、ゲームは趣味じゃないからルールを作るなんてあり得ない…って人間でも、「ルールに従って裁く側」になるコトはあり得る。まあ、草野球・草サッカーレベルの審判を務めるぐらいなら、こんな意識を持たなくても何とかなるだろう。プロの審判ともなると…って話は、さすがに無視して良いのでは。ただ、裁判員になった場合には話が別じゃないかな。
 
 実を言えば、刑法を理解する場合に、「我々が法律違反だと思っているモノは、実は法律に従った行動」って意識は役に立つ。たとえば殺人って行為は、刑事裁判では「ある人間がやったことが、殺人罪の規定(刑法199条)に当てはまる」場合にのみ適用される。また実際の裁判では、「訴求側(捜査・逮捕した警察や起訴した検察)が刑事訴訟法に従った手続きを遵守している」かどうかもポイントだ。
 
 このことと、意識の違いはどんな関係があるのかわからないって?簡単に言えばこうなる。チェック項目が10個あり、全部クリアすればOKとしよう。ここから1個でも「間違っています」ってものを含んでいれば、それは「エラー」であり、言ってみれば「規則に従ってない」状態になる。全てがクリアとなって初めてOK、つまり「規則に従っている」状態だ。刑事裁判の基本的な考えというのは、刑法・刑事訴訟法の「全てのチェック項目がオールクリアとなった場合に限り」罪を適用する、となる。1つでもエラーが発見されたなら、どんなに怪しくても…どころか、実際「人を殺していても」それは殺人罪に問われない。ま、あくまで原理原則論の話だけどね。実際の話となると、判例の紹介と解釈を山ほど行う必要がある(完璧に出来るなら、司法試験に合格できる)のでパス。
 
 殺人ってのは「法律に従った状態」のことを指す?これは、一般常識とは隔絶した概念だろう。けど、裁判員に選ばれたら、この概念に従って結論を出す必要が生じる。刑法・刑事訴訟法が要求しているのは、そういうものだから。裁判員に選ばれたことのない一般人やマスコミなんかはこういう概念を持ってない(持つ必要がない)ので、下手すると「世間の論調」と「裁判の結果」に大きな差が生じることになる。
 
 まあ、裁判員制度について突っ込んだ話をするのは今回の趣旨ではない。私が言いたかったのは、普通なら「ルール違反」だけで片付けるようなモノでも、ちょっと立場が変われば異なった受け取り方をする必要があるってことだ。特に裁判員制度は「極端な例であるにもかかわらず、選ばれちゃう可能性が否定できない」からね。大変だと思うよ、裁判員は。ま、私は「裁判員制度には反対であり、何とかして回避できないか全力で抵抗してみる」つもりなので、関係ないと思うけど(苦笑)。

コメント

_ Mark ― 2008/08/08 18:05

いつもの事ながら面白い問題提起なのですが、特に後半の裁判関係に関しては、ちょっと誤解があるような。
行為の合法・違法の問題と、それに対する刑罰適用の合法・違法の問題が、混同されています。
ある特定の個人(=被告人)に対し、刑罰を適用しようとした場合、その行為が刑罰法規の定める条件(=構成要件)に該当するならば、その行為は原則として違法(=ルール違反である)となります。逆に該当しなければ、その行為は違法でない(=ルール違反でない)事になります。
他方、構成要件に該当しないのに、それを故意に無視して裁判官が判決を下したとすれば、それはその判決(=裁判官の行為)が違法となるのであって、被告人の行為の合法・違法とは別次元の話です。
ですので「殺人ってのは「法律に従った状態」のことを指す」は明らかに誤りです。殺人は違法であり、それに対して刑罰を適用するのに、法律に従っているに過ぎないのです。

_ F男 ― 2008/08/09 00:15

法律に関する問題はおっしゃるとおりです。私よりも正確な表現だと思います。
ただ…おっしゃることを要約すると、結局「法に該当するから違法」「法に該当しなければ違法でない」となりませんか?これは、刑法がそういう性質を持つ法律だからだと思います。
よりわかりやすくするため、「スピード違反」と「殺人」を比較してみましょう。
法定速度が定められている→この法律に反したから「違法」
刑罰法規の定める条件(構成要件)がある→これに該当するから「違法」
一般常識や法実務上は両方とも正しいのですが、論理学的に考えた場合、前者は「正しい」けど、後者は「矛盾っぽい考え」です。これは、「刑法が適用される場合も『違法』と呼ぶ」という前提がなければ、意味不明になってしまいます。
「殺人は違法」という言葉に出てくる「法」って、具体的に何でしょうか?「刑法」ではありませんよね。「刑法の規定に該当するから殺人」ですから。ここでいう「法」は、現在では社会常識や道徳に分類されている「人を殺すべからず」という概念だと思います。この概念は法律より大切かもしれませんが、現在では「法」として扱われることはありません。ここをきちんと理解するのは大変だと思うのですが、裁判員はそれを要求されるはずです。だから、私は裁判員制度に反対なのです。

_ takoba39714 ― 2008/08/09 23:39

 そういえば、罰則規定(主にユニットの除去)があるのってスタックオーバーだけですね。あまり不思議に思ったこといままでありませんでした。移動力超過して使ったら損耗するとかいうルールは見たことないっていうか、それは罰則ではなく、そういうルールですよね。

 ただ、罰則を設けるならあらゆるルール違反に対し何らかの物を用意するべきであって、スタックオーバーだけ例外というのは、確かに面白い。

 更にその罰則を狙うような作戦ってどうよってことですね。
 そんなことをやった時点で、それは少なくとも「罰則」としては機能していないってことに。

 なんか、食べるのに困って刑務所に行きたいから罪を犯すみたいな。あ、いやこれは例えが悪いですね。失礼しました。

_ F男 ― 2008/08/10 03:01

スタックオーバーの罰則規定(ユニット除去)については私もあまり疑ったことがなかったのですが、ふとしたことから「何でこのルールだけ?」と気になったので、ここで指摘してみました。
「改善の余地があるのか、その必要があるのか」などはさておき、とりあえず面白い現象だと思います。

_ Mark ― 2008/08/10 18:14

>ここでいう「法」は、現在では社会常識や道徳に分類されている「人を殺すべからず」という概念だと思います。
正しくここがポイントですね。
法律を含め、人が従うべき準則としての規範(ルール)は、二種類に分類することができます。
一つは、行為前の段階でその行為についての基準となるもの、すなわち行為規範。殺人の例で言えば、「汝殺すなかれ」というのがこれにあたりますし、スタックの例で言えば、「ひとつのヘックスには3個を超えるユニットをスタックさせてはいけない」などというのが該当します。
もう一つは、行為後にその行為を評価するための基準となるもの、すなわち評価規範。同様に例を挙げれば、「人を殺したものは死刑に処す」や「3個を超えるユニットは除去される」などが該当します。
で、確かにどちらの規範についての違反も「ルール違反」とは言えるのですが、人はこの二つの規範の違いを無意識的にちゃんと理解して、行為規範の違反のみを「ルール違反」(あるいは違法)と、一般的に言っているように思います。
これはおそらく正当な事です。なぜなら、行為規範は評価規範に論理的に先行するものであり、後者は前者の存在を前提に、それを担保するためのものだからです(つまり、行為規範を守らせるのが重要であって、評価規範はその手段)。誰も人を殺さなければ殺人罪は不要ですし、スタックオーバーを起こさないなら除去ルールは不要です。
そして「汝殺すなかれ」「汝盗むなかれ」といった行為規範は、明文の法律があるわけではありませんが、歴史的に自明であるとともに、評価規範たる刑法各条文の論理的前提として法的に実在している訳です(禁じられてもいない行為を罰するなどありえない)。
そういう意味で、違法に対する常識的な感覚は、決して法律学的にもおかしなものではないのです。というよりも、本来法律学の使命というのは、一般常識をいかに論理的に体系化するかというところにあるはずなので、その辺で隔絶があっては問題でしょう。
ただ、論理的整合性を追求していこうとすれば、複雑な思考作業が必要なのも確かで、裁判において一般人がそうした過程を実際にこなせるのかは疑問なしとはしません。また、結果として常識的に妥当な結論が出さえすれば良い、というものでもないでしょう。
そうしたことも含め、以前にもコメントしたように思いますが、私も裁判員制度には反対の立場をとっています。

_ F男 ― 2008/08/10 20:40

おっしゃるとおり、法律学は一般常識を論理的に体系化したモノですから、本来一般常識と隔絶したモノではあり得ません。
ただ、一般人の感覚としては「一般常識なんて、深く考えなくてもわかること」というものがあり、この時点で隔絶が生じてしまっていると思います。
私は裁判員制度には反対ですが、「常識について深く考えた結果が法律、つまり常識はトコトン突き詰めて考える価値がある」ということを理解してもらう良い機会であることは「良い点」かもしれませんね。ただ、だからっていきなり実際の裁判に臨ませるのは乱暴であり、初歩的な法学を学ぶ機会の充実を図ってから導入すべき制度では…と思います。

_ 松澤 ― 2008/09/18 01:20

お久し振りです。1ヶ月以上経っていて本筋とは関係なさそうですがコメント致します。
『ハンドってのは「手(腕)でボールに触れること」であり、』は要件が1つ抜けていると認識しています。『意図的に』が入るはずです。世間一般にもその認識がない方が多いように思います。
実際の審判では、他者の意図を完全に判定するのは不可能なので「疑わしきは罰する」になっていると思います。手に接触して接触した側に有利に転べば「意図的」とみなす。
かなり明確に「意図的でない」場合は取らないでしょう。例えば至近距離から相手の手を狙ってボールを蹴った場合、ぶつかったとしても意図的にあてに行く暇がない場合。

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