6月21日2008/06/22 05:04

 いやあ、やはり柿崎さんの文章は面白い。旧シミュレイター投稿欄に掲載されていた時代から楽しませていただいたからなあ。私個人の嗜好で語るなら、週○文春よりずっと価値がありますね。正直、私のブログに掲載されてるのはもったいないです。
 
 柿崎さんの書いた読み物と言えば色々あるけど、有名なのは「ある悲惨なる戦い」か。いやまあ、本来ならばまず「失われた勝利」を挙げるべきだとは思うけど、これはゲームであって読み物ではないので。シミュレイターに連載された、第二次欧州大戦のリプレイである。ただまあ、真面目なリプレイではなく、「ギャグっぽい」ものではあるけど。
 
 余談ではあるけど、「ヒトラー電撃戦」において、私が研究している「奇手奇策」は、実はこの記事を参考にしていたりする。別にいちいち引っ張り出して…ってことをしたワケではないけど、「第二次大戦の戦略級ゲーム」について考える場合、自然とこの記事の内容が浮かんでくるのだ。当時どれだけ熱心にこの記事を読んでいたのか、我ながら呆れるほどだ。
 
 ちなみに、この私もシミュレイターには何度か掲載されたことがあったりして…代表は「ベトナム戦争」リプレイ。何気なく?挑戦してみたら、デザイナーの佐藤大輔氏と対戦し、その記事を書くよう指令が飛んできたのだ。ご丁寧に顔写真まで掲載されていたりする。くれぐれも探して読まないように。プレイ内容・文章共に当時の私の「全力」だけど、「若気の至り」以外の何物でもない(苦笑)。
 
 他にも、実はちょろちょろと「私の書いたモノ」が出てきたりする。投稿コーナーとかに熱心に投稿してたので。まあ、当時の「若いゲーマー」の中で、熱意だけ考えたら上から数えた方が早かったかもしれない。その後この「投稿熱」は競馬方面に向けられ、何だかよくわからんうちにこの分野でも「それなりの地位」を占めて今に至っている。
 
 シミュレイターが消滅してからずいぶんと時が経つけど、その間私がどこか変わったのかと言えば…本質的な点はあまり変わっていない気がする。私は今でも「能力無いけどやる気だけはそこそこある」奴で、ゲームに対する情熱もさほど変わらないのではないかな。まあ、趣味が増えた分熱意も多少分散しているし、アタマも多少固くなってるとは思うんだけど。
 
 それを考えれば、私が「商業誌に記事を書く」こと自体は、不可能ではないと思われる。シミュレイターに掲載された「ベトナム戦争」の記事は、内容はともかく分量はそれなり(4ページだったと記憶している)で、今現在あれと同程度の分量のモノを書けと言われても、対応は可能だと思われる。もちろん内容は大事だけど、まずは「内容を論じるレベルのモノに仕上げる」のが先でしょ。
 
 後は、内容面である。こればっかりはねえ…まあ、このブログは私が思っているより評判が良さそうなので、ヘンに思い悩むより勢いに任せて書いてしまえば…って考えは成り立つ。もちろん商業誌掲載を前提とする以上、ブログ書くのとはワケが違うだろうけど、その辺は「やってみなければわからない」ものでもある。そもそも「ネタは何になるのか」によってかなり変わってくるはずだし。ツマランと編集側が判断すればボツになるだろうから、逆に言えば「ツマラナイものが載ってしまった」ってことで思い悩む必要はない。これは「商業誌故の気楽さ」かも。同人誌やブログは編集も自分だからねえ。
 
 こうやって考えてゆくと、実は案外「私が商業誌に原稿を書く」ことは難しくないような。実際着手した場合色々大変だとは思うけど、言ってみれば「頑張れば何とかなる」性質の苦労であり、「挑戦するのもおこがましい」ってレベルの話ではなさそうだ。
 
 問題はむしろ「単発ならともかく、継続できるのか」だと思うけど、これは現段階で気にする問題ではない。仮に私に継続する意志があっても、ツマランと判断されたらそれまで。まずはとにかく1度掲載され、出来と評判を編集側がどう考えるか次第だ。まだ「私が商業誌に原稿書いてイイのかぁ?」ってことを検討してる段階で悩んだって意味がない。
 
 とまあ、色々考えてゆくと「後は原稿書くだけ」ってなりそうな…まあ、実はソレが一番難しいんだけどね。好き勝手に書いて投稿して採用された…なんて、どこの天才作家の話だよ。せめて分量の目安ぐらい欲しいし、できれば編集側の助言とやらも欲しい。やみくもに突っ走ってなんとかなるようなモノじゃないでしょが。
 
 実は、この手の「ためらい」はデッカイのではないか。雑誌側にしてみれば「投稿原稿大歓迎」なのかもしれないけれど、現段階で投稿規定が決まっているわけでもない。マンガだの文芸雑誌だのの場合「新人賞」みたいなものを設けて新人を募集しているけど、ゲーム雑誌のライターなんてこういうモノがあるわけではない。ある意味ゲームデザインよりハードルが高くなっている。過去あるいは他の分野で一定の実績がある人間を除けば、実はやたら門戸が狭いんでないかい?
 
 ゲーム業界全体を考えた場合、求められているのはライターよりゲームデザイナーだ。それはわかる。だから、デザイン規定はあっても新人ライター募集規定が充実してないのも当然。とはいえ、いきなりゲームデザインってのがハードル高いことも確か。こういう「デザイナーよりは価値の低い人間」の育成に目が向いていないことが、実はゲーム界の問題なのかも。とはいえ、層が薄いこの業界では解決不能なのかも知れないけど。
 
 そこでってわけではないけど、私なりに「商業誌に原稿が掲載されるまで(成功したらだけど)」を、この場でちょろちょろ不定期連載として書き綴っていこうかと。何もかも書けるワケじゃないだろうけど、「編集側はどんな記事を欲しがっているのか」「新人発掘意欲はどの程度なのか」「そのためにどんな手を打つ余地があるのか」ってことは、むしろ発表の場が欲しいぐらいじゃないかと。こうすれば、私だけがどうこうってだけじゃなく、後に続く方(いると信じたい…)の参考になる。ついでに、ここのネタにもなる。
 
 なお、面識のあるライターの方に連絡を取り、「何でオレがこんなプレッシャーかけられなきゃ…」って愚痴りつつ(笑)、色々相談に乗ってもらう予定を立てています。こーゆーコトが出来る辺り、私のいる環境はちょっと恵まれているね。だったら最大限利用しないと。
 
 最後に、業務連絡を1つ。実は私、向こうが請求してこないのを良いことに、「商業誌に掲載される必要があるモノ」の執筆をサボっていたりします。私が人選して能力値を決めた「サンセット版戦国大名追加武将キット」の武将解説だ。ドコをどう考えても「プランサンセット」に掲載する価値があると思うんだけど、何も言ってこないからサボっていたんだな…すいませんすいません。これは近日中に仕上げます。次号に間に合わないのは確実ですけど、その次辺りに発表してもらえればと…

6月23日2008/06/24 02:19

 しばし悩んだ末、本日の話題はまたもゲーム。多いな最近。まあ、そういうノリだってことで。とはいえ、ここ最近の話題とは無関係にいきます。
 
 最新のコマンドマガジン(81号)の「PC SIMUlATION GAMES」(以下PSG)ってコーナーで、懐かしの「高梨パラドックス」について触れていた。そこでまあ、私もこれを話題にしてみようかと。
 
 高梨パラドックスとは何か?これは、シミュレイションゲーム批評の第一人者である高梨俊一大先生が、初期の新シミュレイター(平綴じのモノ)に掲載されていた「シミュレイションゲーム批判序説」(残念ながら未完の連載)って記事で提唱したパラドックスである。どーでもいいことだけど、PSGに「本誌で展開された…」とあるけど、私の記憶が正しければ、高梨先生がコマンド誌上で本格的ゲーム批判記事を書いたことはないんじゃないかと。引用は正確にね!
 
 このパラドックスは、私の記憶(多分不正確)によると、「史実を知るゲームプレイヤーは、史実通りに行動したがらない(特に負けた側)」ってものである。理屈はこうだ。シミュレイションゲームってのは、ある程度は史実を再現することが目的である。そのため、両軍が史実通りに行動したくなることが望ましい。しかし、負けた側が史実通り行動するってことは、可能性として「やっぱり負ける」って結果に終わることが多い。普通それはイヤなので、負けた側は史実と違った行動を取りたがる。
 
 例として挙げられていたのが、確か長篠の戦い。武田勝頼が織田・徳川連合軍に武田騎馬軍団で突撃ぶちかまし、馬防柵と鉄砲のおかげで完膚無きまでに叩き伏せられた戦いとして知られている。、「その後の研究によると…」ってのは割愛。
 
 この戦いを馬鹿正直にデザインするとどうなるか。武田方は、「突っ込んでいけば鉄砲でやられる」ってのを知っている。よって、突撃したがらない。織田方はどうか?馬防柵を捨てて前進すると、武田騎馬軍団の突撃にやられちゃう。よって、これまた前進をためらう。結論として、お互いにらみ合って終わり。これじゃゲームにならないし、史実通りの結果でもない。
 
 これを解決するにはどうするのか?ゲームデザイン実務上の手法を使えば、様々な解決策がある。よくあるのが「武田方は突撃しなくても負け」だと規定し、「同じ負けなら派手に散ってこい」と強要するモノ。あと、織田方の馬防柵や鉄砲隊の威力をさり気なく落とし、武田方に「ひょっとしたら勝てちゃうかも…」と思わせるって手もある。
 
 問題は、こういった手法は自動的に「史実を反映してはいない」ってところにある。長篠の戦いで武田方が被った損害は相当なモノであり、これを上回る損失ってのは考えにくい。「その後の武田家」を考えた場合、「突撃しなくても負け」ってのはオカシイのだ。馬防柵や鉄砲隊の威力を落とすのも似たようなモノ。史実の結果から考えると、「武田騎馬軍団の突撃力を持ってすれば、織田の馬防柵や鉄砲なんぞ踏み潰せる」なんて可能性が残るのは、どこかオカシイ。
 
 このことから、「ゲームとして史実通りの結果が欲しければ、史実通りにデザインしてはイケナイ」って矛盾が導かれる。どこかいじくらないと、指揮官であるプレイヤーの行動が史実通りにならないのだ。理屈は単純。歴史を知るプレイヤーは史実の指揮官と異なり、「結果を知っている」からだ。
 
 何でこんなパラドックスが提唱されたのか。これは…遠因は「タイガーⅠ論争」なんだろうな。細かい点は端折るけど、当時「史実に沿った評価を積み重ねていけば、史実通りの結果が出るに違いない」って理屈があったのだ。ところが、出てくる結論はどっかオカシイ。そのため、「オカシイぞ!」「いや、これでいいんだ」ってな争いがあったらしい。「高梨パラドックス」は、この論争(というか単なるケンカ)に対して、「何でそういう問題が生じるのか」説明を与えたって意義があった…ってのが「私の評価」だ。
 
 「タイガーⅠ論争」ってのは、「帰納と演繹の問題」としても知られている。史実で起きた結果がこうだから…って理屈を積み重ねるのが「帰納法的デザイン」で、鉄砲の貫通力がどれくらいで、それが何丁あって発射頻度が…って理屈を積み重ねるのが「演繹法的デザイン」ってわけだ。当時この両者の間で醜いケンカが行われたようなんだけど、高梨大先生はこの論争に対し、「史実に拘泥すると理屈の再現性は犠牲になる。理屈を突き詰めても史実の結果は得られない。じゃあ、シミュレイションって何だ」という問いかけを発したわけだ。
 
 哲学や数学などの世界では、「良い問いかけ」の方がその答えより大切にされる。そう考えると、この高梨大先生の問いかけは「良い問いかけ」ではないかと。デザイナーごとに様々な回答を出すことが可能ではあるけれど、どれが「正しい」って性質のモノではないはず。ゲームデザインあるいはゲーム批評を「突き詰めて」いった場合、必ず突き当たる問いかけではないかな。
 
 さて、ここで話をPSGに戻そう。この記事では、著名なPCゲームデザイナーの発言と、この高梨パラドックスを重ねている。「ゲームでは、デザイナーが設定したストーリーとプレイヤーが体験するストーリーには溝がある」「この溝を狭くするほどゲームは面白くなる」「過去、デザイナーが設定したストーリーに押しつぶされて失敗したゲームは多数ある」ってな発言に対し、「デザイナーが設定したストーリー」を「史実」に置き換えれば、高梨パラドックスと同じコトを言っているのでは…ってな趣旨の主張しているのだ。なるほどねえ。これはこれで鋭いかも。
 
 私は昔から、「シミュレイションゲームとは、その戦いの指揮官という役割に対するロールプレイでもある」って持論がある。この場合のロールプレイってのは、コンシューマーRPGではなくてテーブルトークの方。「ロールプレイと言えばテーブルトーク」って時代に編み出した理論なので。ファミコン以前の理屈ってコトだ。古いなあ…ってことはさておき、この理論に従えば、上記意見は大いにうなずける。後知恵がある分、どうしたってプレイヤーの立場と当時の指揮官の立場には溝が生じる。その溝を狭くし、「勝利を目指して全力を尽くした結果、史実と似たような行動をとり、白熱した」なんて展開に持ち込めるゲームが「傑作」でしょ。反面、「なんかデザイナーに無理矢理史実通りの作戦を強いられている」と感じさせちゃったら、それがどんな劇的な戦いであっても「史実の結果に押しつぶされてる」と評価できるのでは。
 
 もっとも、私の理解・理論に従えば、上記発言と高梨パラドックスは「違うことを言っている」となる。高梨パラドックスは「史実って何だ」という分析である。実は、ゲーム性についてはあまり説明してない。「歴史重視」「ゲーム重視」って論争は昔からあるけど、これに直接言及した問いかけではないと、私は思っている。このうちの片方である「歴史重視」とは、いったいどんな状態のこと?って部分を掘り下げたモノではなかろうか。全く無関係ではないけど、「ヒストリカル性」にデザイナー各位なりの回答を見つけることと、それがゲームとして成立するか、面白いのかってのは直接関係がある課題ではないと思う。それがシミュレイションゲームデザインの難しさではないかな。
 
 私は、ドッチかと言えばゲーム全般が好きである。別にシミュレイションゲームでなくても、楽しく遊ぶことが出来ると思う。ただ、私の中で特別な地位を占めているのは、やはりシミュレイションゲームだ。どうしてシミュレイションゲームなのか、その答えは自分でもよくわからないけど。だから、「シミュレイションゲームが抱える構造的問題点」については理解しているけど、だからってその解決方法が「シミュレイションって枠組みを取り払う」であっては困る。この点、私とPSGの筆者はかなり意見が異なっているのではないかな。
 
 この食い違いは、実は以前から気がついていた。もっとも、気がついていたのは私だけじゃないでしょ。私は「これはこれであっても邪魔にはならない」と思っていたけど、よりカゲキな意見も聞いている(商売敵を紹介してどーすんだ)し。そもそも、この連載で紹介されているゲームのほとんど全てが「面白いかも知れないけれど、私の特別な寵愛が与えられるモノではあり得ない」品であり、そういうものを私のような人種に紹介しているって時点で「少なくとも私とはズレがある」のは当然だよね。ただ、こういう記事があるからこそ「我々は外部からどう見られているのか」「我々の抱えている問題点は外部にも存在するのか、それに対する取り組みはどうなのか」といった視点を提供してくれるのでは。こういう視点は大事じゃないかなあ。
 
 そもそも、だ。我々シミュレイションゲーマーは、「史実で負けた側を受け持って、勝利って結果に歴史を書き換える」って野望を持ってる奴が多い。駄目だとわかっていてもモスクワだのアントワープだのに突っ込むことを目指したがるとか。史実との溝が狭いだけじゃ飽きたらず、別方向に溝を広げようとしてるわけだ。これは著名PCゲームデザイナーの理論に当てはまらない連中ではないかな。特に私はその傾向が…つい「無茶な作戦に溺れちゃう」からなあ…

6月26日2008/06/27 01:30

 久しぶりに生物学の話題。この話題を書きたくなるモノに遭遇したので。とはいえ、あまりお堅くならぬよう努力しようかと。
 
 先日、トンボを見かけた。捕獲したワケではないので詳細は不明だけど。まだ梅雨なので時に肌寒さを感じることもあるけど、季節はもう夏なんだな…と感じた。つーわけで本日は「トンボの豪快な生き様」を語ってみよう。
 
 トンボってのは、良く出来た生物である。なにせ人間の祖先が両生類レベルの生活をしていた(と推測される)時代から生き残っているのだから。恐竜時代の化石トンボなんて、今のトンボとほとんど見分けがつかない。おそらくは人類が絶滅した後もトンボはトンボであり続けるだろう。
 
 私が住んでいる関東地方では、トンボは夏か秋にしか見かけない。これは何故かと言えば、実は「全滅」しているからだ。日本の関東地方ってのは、トンボが冬を越すには寒すぎるのだ。
 
 一口にトンボと言っても色々いるから、中には関東地方で冬を越せる奴もいるかも知れない。けど、一般論で言ったら全滅しているのだ。つまり、私が先日見たトンボは、去年見たトンボの子孫ではありえない。全く別の血を引くトンボである。
 
 トンボってのは、暖かくなるとどんどん「北上」してくる。暖かければ生息できるから。そうやって生息範囲をどんどん広げてゆき、その地で子孫を増やす。秋にトンボをよく見かけるのは、秋までは「子孫を産んで数を増やす」ことができるから。しかし、冬になると全滅してしまう。少なくとも関東以北では。そのため、春にあって暖かくなっただけでは、トンボを見かけることはない。トンボを見かけるのは、北上してくる奴らが辿り着いてからだ。
 
 なんでこんな生き様を選んでいるのかと言われたら…結局のトコロ、これが効率の良い生き方だからだろう。下手に「寒くても生きてゆける」なんて体になると、逆に暑い時期に対応できないことになる。冬ごもりは1つの手だけど、これはこれで問題を抱える。ライフサイクルが1年単位になってしまうのだ。昆虫の世界でこれは「無駄に長い時間」となる。単純に増殖することだけ考えたら、素早く成長してさっさと卵産んだ方がいいから。あえてそういう生き方を選ぶ生物も多い(人間はその代表だ)けど、それはトンボの生き方ではない。
 
 関東地方に辿り着いたトンボは、そこが「新天地」だと信じて、子孫を残す。その一部はさらに北上して、秋頃には「かりそめの繁栄」を迎える。しかし、彼らに決して春はやってこない。にもかかわらず、翌年には再び別のトンボが関東地方に辿り着き、同じコトを繰り返すわけだ。ずっとずっと。おそらくは何億年も前から似たようなことを繰り返し、人類滅亡後も続けてゆくのだろう。
 
 「子孫を残す」ことは生物最大の使命だ。その観点に立てば、関東地方に辿り着いたトンボに未来はない。せいぜい2~3世代の子孫を残し、断絶する。お先真っ暗だ。ただし、トンボって種全体で考えた場合、これは無駄にはならない。トンボって種が生き延びてきた期間を考えれば、辛い環境のおかげで数を減らした時代もあっただろう。「大量絶滅」を何度も経験しているはずだからねえ。にもかかわらずトンボが今もいるのは、子孫断絶覚悟で新天地に挑む能力があったおかげで、環境が回復した時に素早く数を増やせたからではないかな。
 
 人間の小賢しい知恵で考えると、関東地方にやってくるトンボってのは「刹那的で、利己的で、ついには子孫断絶する愚かな存在」って気がする。でも、それがトンボの生き様であり、結果として数億年もの間生き延びてきたって実績がある。この実績は、生物学の世界では果てしなく重い。
 
 先日のトンボは、おそらく子孫断絶の憂き目に遭う。いくら地球温暖化が進んでいるとはいえ、あと半年後に「寒い冬がやってくる」のは間違いなさそうなので。ただ、「冬なんて来ないかも知れない」って賭けにチャレンジする馬鹿が山ほどいたからこそ、トンボは今も生き残っているのだ。その生き様は尊敬に値するね。
 
 ただ…だからって人間がこの生き様を真似するのはどうかと。万馬券は買わないと当たらないけど、賭け続けて破滅するのは…人間、知能ってモノがあるんだから、有効に使って破滅は避けないといけないよね。色んな意味で無謀な賭に出るのは控えた方がいいだろうな、私の場合…

6月27日2008/06/28 03:55

 先週のココはものすげー反響があった。日曜にやった「POGオフ会」なる、どう考えても競馬仲間の集まりに顔出した時でさえ「なんかスゴいことになってますねえ」なんてツッコまれたくらいだ。ゲーム系ブログでは紹介されまくっているみたいだし…
 
 その1つである、サンセットゲーム主催古角殿のブログ「ウォーゲーム武芸帳」(リンクあります)に、ここが「ゲーム雑誌の『質』を論じていて、『質』が高くなれば売上が伸びるだろう、という話になった」って話題を展開していた…って話が紹介されていた。よって、本日はこの点を論じてみよう。
 
 まずは細かい話から。先週ココで話題とされていたのは、あくまで「読者であるゲーマーの、雑誌に対する満足度」であって、直接的に売り上げ云々って話題ではない。自分で丹念に読み返して確かめた。普通に考えれば「読者の満足度向上~売上増」って流れになるんだろうけど、正直ソレはあまり期待できないってのが私の意見。
 
 いや、実際問題を考えたら、雑誌の満足度が上がれば売上げも増えると思う。「雑誌は毎号買ってない」ってなゲーマーは結構いるので。こういう層が毎回買うようになれば、それなりに売上げは伸びる。それは間違いない。だから、ココの話題が売上げと無関係ってコトはない。
 
 でも、業界の層の薄さを考えたら、限界はかなーり低いところにあると推測される。「カネで才能とやる気を買う」というマトモな手段で雑誌の満足度を上げようと考えたら、結局ペイしない程度じゃないかなあ。この点については、先週の「シャレじゃ済まないツッコミ」を入れて下さった方々の主張を参照していただきたい。。
 
 それにだ。今のゲーム雑誌は、体裁上「ゲーム付き雑誌」ではあるけど、実質は「雑誌付きゲーム」である。主役は明らかにゲーム。付録ゲームが面白そうなら記事がどうであれみんな買うし、興味がないテーマだったり「つまらなそうだ」って話になれば買わない。私は記事目当てって側面が強い(昔からの習慣と個人的嗜好により)けど、これは例外じゃないかなあ。
 
 そうやって考えてゆくと、結局「ゲーム雑誌の記事の満足度なんて、売上げとほとんど無関係」ではないかって話になる。確かに、我々ゲーマー側も「ゲームだけドンと与えられただけ」では、色々戸惑うことが多い。そこを多少フォローするため雑誌が付いているけど、しょせんその程度の役割。まあ、箸休めみたいな役割を果たす程度に整っていさえすれば、本来文句が出る筋合いのモノではない気がして仕方がない。
 
 ゲームが主役で雑誌記事はオマケに過ぎないんなら、「手をかける」べきなのはどちらか。言うまでもない。それどころか、経費面で足を引っ張らないよう「安上がりに」仕上げるのがむしろ正しい。結果として雑誌記事はつまらなくなるけど、だからどーした。そこにカネかけるくらいなら、マップかユニットにカネかける方がよほど正解でしょ。
 
 実を言えば、これはこれで正しい姿勢である。主役はあくまでゲームなのだ。我々はゲーマーなのだから。雑誌記事を充実させたとしても、「それで歴史群像に対抗できるのか」って問題が生じる。この答えは単純明快。対抗不能。だってゲームなどという「余計なモノ」がついているから、内容が同じだったら値段の差で負ける。歴史群像の大多数の読者にとっては、ゲームなんて邪魔なだけだから。売上期待値が低い以上、経費もかけられないから、結果として内容はよりチープでツマランものになる。ならざるを得ない。じゃあ、ゲームなんてつけなければ…商売のことを考えたら、これが正解だ。でも、ゲーマーはそれだと困る。
 
 そもそもだ。「比較的メジャーな戦史の記事」ってのは、ある意味ゲーム雑誌に載ってる意味がこの上なく低い。そりゃあ読者の大半(私も含む)はそういう記事が好きだ。でも、それをゲーム雑誌上で読む意味はない。そんなものは戦史専門の雑誌だけでなく、プラモデル雑誌やミリタリーメカ系の雑誌にさえ掲載されているのだ。この中でどこが一番安い原稿料しか払えないのかを考えれば、良い記事が回ってくるワケがない。期待する方が間違っている。八百屋で魚、赤軍に華麗な機動防御を期待するようなモノ。いくら需要があっても、原稿の供給がなければ取引は成立しない。そしてゲーマーの需要なんて、供給に値しない程度だと、原稿料が証明している。
 
 じゃあどうすればいいのか?うーん…難しいよね。ゲーム制作にかかる経費のこと考えたら、「ゲームが付いてる」ってのはやはり負担だ。よって、内容をどう充実させてもゲーマー以外の人間が手に取ってくれるモノが出来るとは思えない。ならば、ゲームつけるのをやめて…って路線に走るか?それだとゲーム界のためにはならない。「みんなで歴史群像買えばいい」って言ってるのと同じだ。売上のこと考えたら、「シミュレイションゲーム」って枠組みはハンデでしかない。その程度なのよ、この業界は。
 
 結局のトコロ、出来ることと言えば、「現在ゲーマーである人間に、雑誌をよりコンスタントに買ってもらえるよう努力する」だけではないかと。こうしたところで売上が劇的に増えるとはカケラも思わないけど、地道にやってくしかないんじゃないかなあ。そのためには…まあ、とにかく悩む前に原稿書けってことですね。これまた他に手があるとも思えないし。
 
 ただ、だからって何でオレが…他にもっと「いい書き手」いるんじゃないかなあ。同人誌編集者としての私から見たら、書き手としての私なんて「使えねえ」で終わりだってのに…ブツブツ…

6月28日2008/06/29 03:56

 ををう、なんか知らないけど昨日のコメント欄が「燃え上がって」いるではないか!しかも、私とあまり関係ないことで。これに対して黙っているのは何なので、ここの管理責任者って立場から少し語っておきましょ。
 
 まずはコメント欄の「処置」について。熟読して色々考えた結果、全コメントを「そのまま残す」ことにしました。1)私が常日頃から「削除対象だ!」と公言している広告コメントではないこと、2)とりあえず沈静化している気配があり、このブログの「コメント件数制限」(運営先が付けた機能として設定されている)に抵触する可能性が低いこと、3)「反社会的」だと判断を下すほど悪質なモノではないこと、4)私の書いたモノと関連性が低いと断言しにくいこと、が主な理由。甘いのか辛いのかはわからないけれど、とりあえずはこれが私の判断だ。
 
 通常、このような事態が発生した場合、「無視してやり過ごす」のが正しいとされている。沈静化させようとしても、火に油を注ぐだけ…ってことになりがちなので。しかしまあ、私が「コメントから逃げた」わけではないってことは意思表示しておいた方が、かえって安全ではないかと。
 
 今回の「炎上」(あえてこの表現を使わせていただく)は、なんか「私と無関係に」盛り上がっている点に特徴がある。そりゃあ火種は私かもしれない。けど、私が返したコメントに反応して…って形で話が進んだワケではない。私がチェックした時点ですでに「燃え上がって」いた。ううむ…
 
 あえて言わせてもらうなら、ここは「掲示板」ではないので、私不在で話を盛り上げるのはどうかと。私は一応「原則として全てのコメントに私の返信を付ける」ようにしている。よって、「コメントに対するコメント」をつけるなとは言わないけれど、それはまず私がコメントしてからにしてもらいたい。ここのコメントは「原則としては私に向けられたモノ」であり、そこに割り込まれるのは、たとえ私を擁護するモノであっても「マナーとしては、あまり良くない」と思うので。
 
 そこでだ。大変申し訳ないんですが、今回のコメント群に対して、私からのコメントはつけないことにしました。マナー違反に対するペナルティと受け取っていただいて結構です。コトの経緯はともかく、少なくとも私が「行儀の悪い行動だと思った」のは事実であり、そこに対してはあえて注意を喚起しておいた方が良いと思うので。厳密には最初の発言はマナー違反ではないのだろうけど、同一人物と思われる人間が「反論」しているので、やはりマナー違反だと判断させていただく。
 
 なお、本日の話題に関してだけは、一切のコメントを禁じておきます。今回の話は、「管理者権限による通達事項」って側面が強いので。私は管理者としてここの「秩序」を守る義務がある。だから、これぐらいの権限はあるはず。

6月29日2008/06/30 00:57

 宝塚記念の馬券はハズしたけど、代わりに「新・萌えるヘッドホン読本」(白夜書房)をゲット。以前「入手に苦労した」話をした同人誌版に大幅な加筆・訂正が入った商業誌版である。重複だらけではあるんだけど、それでも両方持っているのが「正しいF男」でしょ。
 
 さて、本日の話題は不定期連載「私がゲーム雑誌に原稿を掲載するための道」その1といこう。現状具体的進展はゼロだけど、その前に「考えるべきコト」は多いからね。
 
 その1のネタは、ズバリ「どんなものを書くべきか」である。一応は商業誌掲載を目指して何か書く以上、「気の向くまま思うままに書きまくり、完成したら送っちゃう」なんて手法が通用するワケがない。どーゆーものをどーゆー形で仕上げ、どんな形で掲載してもらうのか、一応はこちらで考えておくべきかと。
 
 現状、私には「編集部側の事情」なるものはわからない。まあ、「ソコソコのライターは慢性的に欲しがっているんだろうな」って気はするけど、そんなものはゲーム雑誌を読んでいればすぐわかること。もし可能ならば、もう少し具体的に「どんな原稿を欲しがっていて、どんなものを書けばいいのか」情報が欲しいってのも事実である。
 
 もちろん、いくら向こうが欲しがっていても、私がそれを書けなければ意味がない。たとえばだ。私にはどう頑張っても「最新ゲーム紹介」は書けない。これは文才がどうとかゲームの才能がこうとかいう話ではない。この記事を書けるのは、とにかく「内外の最新ゲームにいち早く触れることが出来る立場の人」だけである。私の立場・財力ではこれは無理。また、「イラストやマンガを…」と言われても対応不能だ。
 
 とはいえ、私に対応可能と思われるモノも、それなりの幅を持っている。穴埋めコラムとか軽いギャグといった「軽い」もの、あるいはリプレイ・作戦研究。戦史記事は…やろうと思えば書けるかも知れないけれど、基本的には「無理だ」と考えておいた方が無難かな。これらのうち、私は何を書くべきか?
 
 これに対する回答を得るには、実は2つの「道」がある。まず1つは、「自分が書きたいモノを書き、掲載されるかどうかは編集部にお任せ」ってもの。いわば投稿型。もう1つは、「何らかの手段で編集部に接触し、意向を聞いてみて、それに従って原稿を書いてみる」もの。打ち合わせ型としておこう。
 
 私は現時点では「無名の新人ライター」…ですらない。よって、編集部側から私に接触してきてうんぬん、って可能性は考えなくて良い。「プランサンセット」はちと話が別だけど(苦笑)。よって、打ち合わせ型のことは考えなくて良い…ってワケでもない。
 
 以前も書いたとおり、ゲーム雑誌ってのは「ゲームが本体で雑誌がオマケ」である。よって、「ゲームに関係がある、出来の良い記事なら何でも掲載する」って方針でいるとは限らない。一大傑作なら話は別かもしれないけれど、私がそんなものをいきなり書けるワケがねえ。「長いこと寝かせておき、機を見て使う」ならまだいい。場合によっては「編集方針と合わないので、ウチじゃ使えない」と判断される可能性がある。
 
 しかしだ。仮に私が書いたモノが「ソコソコの出来」だったとしよう。私が投稿した原稿自体は「編集方針と合わないから、使えない」としても、「こーゆーものなら掲載できるから、書いてみてくれない?」って話になるかも知れない。逆に言えば、「それを当て込んで投稿する」って考えも成り立つわけだ。
 
 投稿型の場合、ある程度「ここはこういうモノを欲しがっているのでは」ってヨミが重要になる。原稿を書くこちらも色々準備は必要だから、それを無駄にしないためにも「ある程度は採用されることを考えて」原稿を書く必然性があるので。
 
 逆に「投稿するのは、打ち合わせをするきっかけ作り」だと割り切るのなら、このようなヨミは必要ない。極端な話、編集方針と一致している必要がないから。それよりは「内容重視」で、読んだ相手が「原稿依頼してみようかな…」って気になることが大事である。
 
 こんなこと書くと「また小賢しい細工から…」って言われそうだけど、こーゆーことを考えず、ただ漠然と「原稿書け」では、いったい何を書いて良いのか見当も付かない。とりあえずの目安は必要でしょ。
 
 実はこの考え、「漫画家になるためには」って手引きを応用しているだけ。同人誌即売会「コミティア」のカタログは「ティアマガジン」って雑誌?を兼ねていて、そこにこうしたノウハウが色々掲載されているからねえ。もちろん私はそーゆートコロもチャンと読む。それどころか、諸般の事情からコミティアに行けない場合でも、カタログだけ買ってるくらいだ(苦笑)。「使えそう」ならば、こうした知識も動員する価値はあるでしょ。
 
 さて、ここでより具体的な話に踏み込んでみよう。現状、コマンド誌には「ライターの投稿規定」なるものが設定されている。次号予告のトコロを丹念に見てもらえば、発見できるはず。これによると、「レジュメを送ってこい」となっている。とりあえずは、そのレジュメを見て採用するべきか判断するってコトだろう。
 
 これは、コマンド誌が欲しがっているモノが「そのまんま掲載されることを前提としたモノ」ではないか?って推測が成り立つ。レジュメだけでは、当然文章力などはわからない。よって、そういうものよりも「ウチで使える性質の内容なのか」をチェックしたい…という意図なのだろう。よって、「採用されたければ、最初から掲載を前提として何を書くのか決める」必要がある。ただ、作るのはレジュメだけで良いから、原稿制作に必要な作業(リプレイだったら掲載用のプレイとか)は「これでいきましょう」と話がまとまってからで良い。
 
 これに対し、GJには「ゲーム投稿規定」はあっても、ライターの投稿規定がない。これは「新規ライターなんていらない」って姿勢…ではないと思うけど、まずは「ライターとしてやっていけるのか?」ってトコロを証明しないと、使ってもらえそうもない。レジュメだけ送ったのでは、多分採用される可能性はゼロだ。それよりかは、完成した作品を送って「これだけのモノが書けます。使ってもらえますか?」って形で話を持って行くべきだろう。だとしたら、送る原稿は必ずしも「GJで使ってもらえる」ものである必要はない。むしろ他で発表済み(当然GJには掲載できない)のものを「実績」として持ち込むべきなのかもしれない。
 
 これをふまえて、今の私に当てはめてみよう。現状私は実績が無く、原稿は1行も完成してない。それを踏まえた上で、「ゲーム雑誌に掲載されるため」どうすべきか?私が思うに、まずは「コマンド誌へ投稿すること」を軸に考えるべきだ。投稿規定がある分、「何をすればいいのか」が具体的だし。それに、ここに採用されようと思ったら、まずは「コマンド誌が採用したくなる内容」でなければならないので。
 
 仮にレジュメの段階で「編集側の都合により不採用」となっても、まるで無駄にはならない。あえて完成させ、今度はGJに送ってみる。元々がコマンド向けなので、そのまま採用される可能性はゼロだ。しかし、現状GJに「送ってそのまま採用される」原稿を書くのはちと難しい。ならば、「この原稿は習作であり、編集側の意図を聞くためのきっかけ」だと割り切った方がいいだろう。あと、内容が薄いのを承知の上で、このブログの赤い記事をいくつか添えておいた方がいいだろう。内容はともかく、「ある程度の分量はこなせますよ」って証明になる。
 
 「どーやったら商業誌に書けるようになるのか」なんてのは、個別の事情次第だと思う。何が書けるのか・その質と生産量は…ってトコロだけでなく、学歴(戦史モノを書くなら邪魔にはならないはず)だの実績(ブログや同人誌も含まれる)だの、果てはツテにコネの有無や、「その業界と関係のない経験」によって「どう行動すべきなのか」が大きく左右されるものじゃなかろーか。正解なんて、自分で見つけるしかない。他人の経験・意見は尊重する必要があるにしてもだ。
 
 ブログや同人誌なら、当人の意思次第で自動的に掲載される。「編集者としての自分」がボツを命令してくる…ってのは別にして(苦笑)。けど、商業誌はそうはいかない。ごく僅かな例外(商業誌を運営している側の人間とか、名の通ったライター)を除けば、「どーやったら掲載してもらえるのか」ちゃんと考えないとイケナイ。これが「商業誌に書く厳しさ」の1つ(当然全てではない)ではないかと。よって、色々考えてみました。
 
 しかし…まあ大方針は決まったとして、具体的に何を書けばいいんでしょうかね?そもそもレジュメなんて、何書けば良いんだ?まだまだ前途多難ですよ。トホホ…