6月23日2008/06/24 02:19

 しばし悩んだ末、本日の話題はまたもゲーム。多いな最近。まあ、そういうノリだってことで。とはいえ、ここ最近の話題とは無関係にいきます。
 
 最新のコマンドマガジン(81号)の「PC SIMUlATION GAMES」(以下PSG)ってコーナーで、懐かしの「高梨パラドックス」について触れていた。そこでまあ、私もこれを話題にしてみようかと。
 
 高梨パラドックスとは何か?これは、シミュレイションゲーム批評の第一人者である高梨俊一大先生が、初期の新シミュレイター(平綴じのモノ)に掲載されていた「シミュレイションゲーム批判序説」(残念ながら未完の連載)って記事で提唱したパラドックスである。どーでもいいことだけど、PSGに「本誌で展開された…」とあるけど、私の記憶が正しければ、高梨先生がコマンド誌上で本格的ゲーム批判記事を書いたことはないんじゃないかと。引用は正確にね!
 
 このパラドックスは、私の記憶(多分不正確)によると、「史実を知るゲームプレイヤーは、史実通りに行動したがらない(特に負けた側)」ってものである。理屈はこうだ。シミュレイションゲームってのは、ある程度は史実を再現することが目的である。そのため、両軍が史実通りに行動したくなることが望ましい。しかし、負けた側が史実通り行動するってことは、可能性として「やっぱり負ける」って結果に終わることが多い。普通それはイヤなので、負けた側は史実と違った行動を取りたがる。
 
 例として挙げられていたのが、確か長篠の戦い。武田勝頼が織田・徳川連合軍に武田騎馬軍団で突撃ぶちかまし、馬防柵と鉄砲のおかげで完膚無きまでに叩き伏せられた戦いとして知られている。、「その後の研究によると…」ってのは割愛。
 
 この戦いを馬鹿正直にデザインするとどうなるか。武田方は、「突っ込んでいけば鉄砲でやられる」ってのを知っている。よって、突撃したがらない。織田方はどうか?馬防柵を捨てて前進すると、武田騎馬軍団の突撃にやられちゃう。よって、これまた前進をためらう。結論として、お互いにらみ合って終わり。これじゃゲームにならないし、史実通りの結果でもない。
 
 これを解決するにはどうするのか?ゲームデザイン実務上の手法を使えば、様々な解決策がある。よくあるのが「武田方は突撃しなくても負け」だと規定し、「同じ負けなら派手に散ってこい」と強要するモノ。あと、織田方の馬防柵や鉄砲隊の威力をさり気なく落とし、武田方に「ひょっとしたら勝てちゃうかも…」と思わせるって手もある。
 
 問題は、こういった手法は自動的に「史実を反映してはいない」ってところにある。長篠の戦いで武田方が被った損害は相当なモノであり、これを上回る損失ってのは考えにくい。「その後の武田家」を考えた場合、「突撃しなくても負け」ってのはオカシイのだ。馬防柵や鉄砲隊の威力を落とすのも似たようなモノ。史実の結果から考えると、「武田騎馬軍団の突撃力を持ってすれば、織田の馬防柵や鉄砲なんぞ踏み潰せる」なんて可能性が残るのは、どこかオカシイ。
 
 このことから、「ゲームとして史実通りの結果が欲しければ、史実通りにデザインしてはイケナイ」って矛盾が導かれる。どこかいじくらないと、指揮官であるプレイヤーの行動が史実通りにならないのだ。理屈は単純。歴史を知るプレイヤーは史実の指揮官と異なり、「結果を知っている」からだ。
 
 何でこんなパラドックスが提唱されたのか。これは…遠因は「タイガーⅠ論争」なんだろうな。細かい点は端折るけど、当時「史実に沿った評価を積み重ねていけば、史実通りの結果が出るに違いない」って理屈があったのだ。ところが、出てくる結論はどっかオカシイ。そのため、「オカシイぞ!」「いや、これでいいんだ」ってな争いがあったらしい。「高梨パラドックス」は、この論争(というか単なるケンカ)に対して、「何でそういう問題が生じるのか」説明を与えたって意義があった…ってのが「私の評価」だ。
 
 「タイガーⅠ論争」ってのは、「帰納と演繹の問題」としても知られている。史実で起きた結果がこうだから…って理屈を積み重ねるのが「帰納法的デザイン」で、鉄砲の貫通力がどれくらいで、それが何丁あって発射頻度が…って理屈を積み重ねるのが「演繹法的デザイン」ってわけだ。当時この両者の間で醜いケンカが行われたようなんだけど、高梨大先生はこの論争に対し、「史実に拘泥すると理屈の再現性は犠牲になる。理屈を突き詰めても史実の結果は得られない。じゃあ、シミュレイションって何だ」という問いかけを発したわけだ。
 
 哲学や数学などの世界では、「良い問いかけ」の方がその答えより大切にされる。そう考えると、この高梨大先生の問いかけは「良い問いかけ」ではないかと。デザイナーごとに様々な回答を出すことが可能ではあるけれど、どれが「正しい」って性質のモノではないはず。ゲームデザインあるいはゲーム批評を「突き詰めて」いった場合、必ず突き当たる問いかけではないかな。
 
 さて、ここで話をPSGに戻そう。この記事では、著名なPCゲームデザイナーの発言と、この高梨パラドックスを重ねている。「ゲームでは、デザイナーが設定したストーリーとプレイヤーが体験するストーリーには溝がある」「この溝を狭くするほどゲームは面白くなる」「過去、デザイナーが設定したストーリーに押しつぶされて失敗したゲームは多数ある」ってな発言に対し、「デザイナーが設定したストーリー」を「史実」に置き換えれば、高梨パラドックスと同じコトを言っているのでは…ってな趣旨の主張しているのだ。なるほどねえ。これはこれで鋭いかも。
 
 私は昔から、「シミュレイションゲームとは、その戦いの指揮官という役割に対するロールプレイでもある」って持論がある。この場合のロールプレイってのは、コンシューマーRPGではなくてテーブルトークの方。「ロールプレイと言えばテーブルトーク」って時代に編み出した理論なので。ファミコン以前の理屈ってコトだ。古いなあ…ってことはさておき、この理論に従えば、上記意見は大いにうなずける。後知恵がある分、どうしたってプレイヤーの立場と当時の指揮官の立場には溝が生じる。その溝を狭くし、「勝利を目指して全力を尽くした結果、史実と似たような行動をとり、白熱した」なんて展開に持ち込めるゲームが「傑作」でしょ。反面、「なんかデザイナーに無理矢理史実通りの作戦を強いられている」と感じさせちゃったら、それがどんな劇的な戦いであっても「史実の結果に押しつぶされてる」と評価できるのでは。
 
 もっとも、私の理解・理論に従えば、上記発言と高梨パラドックスは「違うことを言っている」となる。高梨パラドックスは「史実って何だ」という分析である。実は、ゲーム性についてはあまり説明してない。「歴史重視」「ゲーム重視」って論争は昔からあるけど、これに直接言及した問いかけではないと、私は思っている。このうちの片方である「歴史重視」とは、いったいどんな状態のこと?って部分を掘り下げたモノではなかろうか。全く無関係ではないけど、「ヒストリカル性」にデザイナー各位なりの回答を見つけることと、それがゲームとして成立するか、面白いのかってのは直接関係がある課題ではないと思う。それがシミュレイションゲームデザインの難しさではないかな。
 
 私は、ドッチかと言えばゲーム全般が好きである。別にシミュレイションゲームでなくても、楽しく遊ぶことが出来ると思う。ただ、私の中で特別な地位を占めているのは、やはりシミュレイションゲームだ。どうしてシミュレイションゲームなのか、その答えは自分でもよくわからないけど。だから、「シミュレイションゲームが抱える構造的問題点」については理解しているけど、だからってその解決方法が「シミュレイションって枠組みを取り払う」であっては困る。この点、私とPSGの筆者はかなり意見が異なっているのではないかな。
 
 この食い違いは、実は以前から気がついていた。もっとも、気がついていたのは私だけじゃないでしょ。私は「これはこれであっても邪魔にはならない」と思っていたけど、よりカゲキな意見も聞いている(商売敵を紹介してどーすんだ)し。そもそも、この連載で紹介されているゲームのほとんど全てが「面白いかも知れないけれど、私の特別な寵愛が与えられるモノではあり得ない」品であり、そういうものを私のような人種に紹介しているって時点で「少なくとも私とはズレがある」のは当然だよね。ただ、こういう記事があるからこそ「我々は外部からどう見られているのか」「我々の抱えている問題点は外部にも存在するのか、それに対する取り組みはどうなのか」といった視点を提供してくれるのでは。こういう視点は大事じゃないかなあ。
 
 そもそも、だ。我々シミュレイションゲーマーは、「史実で負けた側を受け持って、勝利って結果に歴史を書き換える」って野望を持ってる奴が多い。駄目だとわかっていてもモスクワだのアントワープだのに突っ込むことを目指したがるとか。史実との溝が狭いだけじゃ飽きたらず、別方向に溝を広げようとしてるわけだ。これは著名PCゲームデザイナーの理論に当てはまらない連中ではないかな。特に私はその傾向が…つい「無茶な作戦に溺れちゃう」からなあ…