8月24日2009/08/25 03:22

 本日の話題は、小倉日経オープンについて。「都市対抗野球はどうした!」「同人誌即売会コミティアの話じゃないのか!」って意見が一部にあるとは思うけど、コッチはコッチで大事な話なので。
 
 このレースが行われる季節になると、どーしても「苦い思い出」が蘇ってくる。ニホンピロナーリって馬が「散った」のは、このレースだったからなあ。これ自体も苦い苦い思い出だけど、あの日「自分がその場にいなかった」のがねえ…私がいたからって何が変わるワケでもないけれど、それでも「あんな思いをするのは二度とごめんだ」って気持ちは強い。
 
 何故私はこの馬に「惚れた」のか?自分でも良くわからん。なんとな~く馬券買っただけである。ただまあ、一応私が最初に「新馬の頃からずっと追いかけた」馬だ。こいつはいずれ強くなる、重賞でも活躍できる!と思って馬券を買い続けた。詰めの甘い馬で、やたら2着3着が多かった。それでも段階を踏んで出世してゆき、重賞にも出走した。
 
 この馬は、ヘンな使われ方をした馬だった。いやね、競馬の世界で使われ方と言えば「どのレースを使うか」を指すけれど、コレに関しては別にどうってコトはない。この馬がヘンだったのは、長期休養に入ってから。レースに使われないのに、何故か同じ厩舎の馬と「併せ馬」していたのだ。理由はゆくわからん。何かしら「稽古台」として便利だったんじゃないかとは思うけど。所属の伊東雄二厩舎(引退してしまいましたねえ…)は「名門」だから、稽古相手は結構豪華だったと記憶している。そーゆー使い方をする調教師も調教師だけど、ソレをチェックしている私も私だけどな。
 
 そうこうしているうち、この馬は「見切り」をつけられ、地方競馬へ転出していった。ドマイナーな馬なので、引退式なんてあるワケねえ。ひっそりと、実にひっそりと転厩していった。私としては、「コレでこの馬とお別れか」と思っていたんですよ。
 
 話がこれだけなら、感謝こそすれ「苦い思い出」にはならない。この馬、地方所属のまま小倉日経オープンに出走してきたのだ。「うわ、懐かしい。小倉に行っちゃおうかな」と思ったけど、実際には行かなかった。当たり前の話ではある。小倉は遠い。
 
 そこで後楽園のWINSでレースを見ていたんだけど…ニホンピロナーリはゴールすらしてくれなかった。故障発生・予後不良…唖然とするばかりで、その場では涙も出なかった。ただひたすら、モニターの前で立ち尽くしていた。泣けたのは、やっと翌日になってからである。人間、あんまり悲しいと涙も出ないんだと、この時知った。
 
 私が今でも後悔しているのは、「なんでオレはあの日小倉にいなかったのか」だ。理屈から言えば、別に私が小倉に行く必要はないし、気軽に行くにはあまりにも遠い土地だし、行ったからって何かが変わるワケでもなく、WINSにいた時同様「何が起こったのか」もよくわからず、ただ小倉競馬場で立ち尽くしているだけだったと思う。それでもね…理屈とは無関係に、「せめて少しでも近くで最期を看取ってやりたかった」って気持ちがあるんですよ。あんな思いをするのは、正直二度とごめんである。
 
 競馬の世界では、「惚れた存在が、自分の手が届かないところで最期を迎える」なんてのは、良くある話である。人間の話でさえ「哀しいけれど、そーゆーコトもあるよね」ってのがこの世の理だから、ある程度は割り切らないとやってゆけない。それはわかっているんだけど、それでもニホンピロナーリの件だけは、なんか自分が許せないんだな。それだけ、私が若かったって話なのかも知れないけど。
 
 私はこれ以降、惚れた馬が走る時は必ず駆けつけている…ワケじゃない。そんなコトは無理・無茶でしょ。時々「オレの競馬への情熱なんて、その程度」と思う。でも、世の中なんてそんなものだ。気持ちだけで「現実」を全て振り切れるワケがない。「その時」はショックを受けて猛烈な無力感に襲われ、心の底から大いに反省するけれど、それでも「何ができたわけでもないし、何をするつもりもなかった」ことに変わりはない。その場の後悔なんて、「無い物ねだり」の1つに過ぎない。
 
 ただ…そうは言っても、あの日の後悔は二度としたくないって気持ちを忘れることはできない。普段はあまり気にしなくても、節目節目で蘇ってくる。私にとって、「小倉日経オープン」ってレース名は、この節目だ。あの日の後悔と、それを経験していながら「再びあんなコトが起きても、文句を言えない」ままでいる、今の自分の不甲斐なさが入り混じったイヤ~な気持ちになるんだよ。こればっかりはどーしよーもない。私がよほどの金持ちで暇人にならない限り、「二度とあんな目に遭遇しない」なんてコトはあり得ないんだから。
 
 ニホンピロナーリが最期に残したものは、ものすご~く苦い。でも、だからって忘れることはできない。これを忘れるってコトは、この馬が残してくれた「勝って喜び、負けて悔しがる」、素晴らしい日々もついでに忘れることだから。すさまじく苦い思い出がセットとはいえ、トータルで考えて「全て忘れ去るのと、全て覚えているのと、どちらが良いか」については、悩む必要すらない。「思い出の馬」ってのは、そーゆーものじゃないか?「思い出すのは、良いことばかり」ってのは、ある意味何かが違うような気がする。酸いも甘いもイヤというほど味わい、ドッチも等しく思い出すけど、それでもトータルで考えれば「いい思い出」になる…ってのが正直なところじゃないかなあ。
 
 ニホンピロナーリと言えば、何と言っても新馬戦。私が観たのは「折り返しの新馬」(昔はこーゆー制度があった)だけどね。だから、POGで私が指名した馬がデビューする際には、今でも必ず天国のニホンピロナーリに祈りを捧げる。無事に走ってくれますように、俺が心底惚れるようないい馬に育ってくれますように…と。正直言ってPOGで結果を出せていない以上、「ひょっとすると逆効果?」と考えることもあるんだけど、それでも止めないだろうな。私にとって「新馬戦を象徴する存在」は、今も変わらずニホンピロナーリなのだから。
 
 小倉日経オープンがあった先週の日曜日、私が今期POGで指名した馬が勝った。ハッキリ言って私と極めて相性が悪い藤澤調教師の馬だったり、ドコをどう見てもダート血統なのに芝1800でデビューしたり…と、「大丈夫なのかコイツ」って気持ちにさせられた馬ではあるけれど、なんとか勝ってくれた。やっぱり、特別なご加護があったのかな。うんうん、嬉しいよ私は。
 
 しかしだねえ…時計は遅いし、内容も「やっとこさ勝ちました」ってもので、期待よりも不安が大きい馬なんだよな。いずれダート使って、そこではかなり走ってくれると思うんだけど…次は「ニホンピロナーリのご加護」ナシなんだよ?わかってんのかサトノサンダー&藤澤調教師。

8月27日2009/08/28 01:48

 このところ更新失敗が続いた。地味に不調である。やはりコミケ疲れが続いているのか?体はともかく、精神も消耗するからなあ。
 
 諸般の事情により、今回はいつもより「コミケのこと」を語りたい気分。つーわけで、「一般人向けのコミケ報道の例」を肴に語ってみようかと。ヲタクの私にしてみれば、ツッコミどころ満載だし。
 
 とあるサイトからのリンクをたどってたどり着いたのは、内外タイムスの「コミケレポート」(こちら)この新聞についての詳細は以下略。ちなみに、私は読んでない。どーゆー新聞なのか、一応の知識はあるけどね。
 
 正直言って、タイトルからしてツッコミどころ。「ヲタク記者は見た」ってアオリがついているけど…ヲタクの定義論を展開するつもりはないけど、記事を読む限りでは、取材した奴はヲタクとは言い難い。いやね、「読者にわかりやすくするため、ヲタク臭を消して記事を書く」必要があったので…って可能性は高いわけだけど、それでもアレは違うと思う。用語の使い方などを見る限りでは、多分「いわゆるヲタクジャンルについて行ける程度」に過ぎない。その程度の存在をヲタクと呼ぶなら、「それ系」のパチンコを打つ奴は全員ヲタクってことになる。流石に違うでしょ。
 
 そう判断する最大の根拠は、「販売員」という用語。言いたいコトはわかるけど、いわゆる「同人誌売っている奴」をこう呼ぶようじゃ、ヲタクとは言い難い。少なくとも、私は猛烈な違和感を感じる。コミケに何度も出入りしている奴なら、「売り子」を使うのが普通。この言葉が使えない場合でも、「販売員」って言葉を使うのは避ける。あくまで慣習上の話ではあるけど。
 
 先日語ったように、コミケに「客」はいない。「売り手」と「買い手」はいても、それは「客」と「店員」の関係とは異なる。そのため、「販売員」って言葉はものすげー違和感がある。コミケ参加歴の長いヲタクなら、これは感覚的にわかるのでは。それに加えて、コミケでの「売り子」は、かなりの確率で「同人誌作った奴」を兼ねている。そんな存在を販売員と呼ぶのは、失礼とまでは言わないけれど不適切だと感じる。なんつーか…「魚を1頭2頭と数える」とか「女性なのに男言葉」のような感じと言えば、わかってもらえるかなあ。私個人の感覚では「役職の表記間違い」「ミセスとミスの取り違え」並みに失礼なんだけど、これは私が古くからのヲタクだからだろう。
 
 面白いなと感じたのは、おそらく「何故同人誌を売っているのか」って質問(多分、「儲かるのか」「いえ、それほどでも」「ならば…」って流れで出た)に対する回答と思われる、「売り上げよりも、作品を読んでもらうのが目的ですから。読者との交流が楽しみなんです」って回答に対する、「アマチュア色全開」ってコメント。商業作家としてソコソコ成功している存在でさえ、コレが狙いで同人誌作っている人間は多いとされているんだけどなあ。
 
 マンガなどの場合、読者と交流する機会なんてモノはあまりない。アンケートの人気だの単行本売上金額だので「人気あるんだオレ」ってことを実感できることは確かだけど、これはあくまで数字上の話。これは手応えというか何と言うか…に乏しいのは否めない。同人誌即売会ならば、目の前に押し寄せてくる客を見ることによって、「スゴいなオレ」って実感を得やすい。ナマで「これからも頑張って下さい!」ってコメントも聞ける。これはサイン会などでも得られるモノではあるけど、同人誌即売会でやったって悪くはないはず。ミュージシャンがコンサートで「ファンから元気をもらう」のと、別に大きく異なったことをしているワケじゃない。それを「アマチュア色全開」と表現するのは、「ヲタクの発想じゃねーな」と感じるのだな。
 
 となあ、何となく批判めいたコトを述べてきたけれど、別に「だから駄目」って話じゃない。内外タイムズの読者の大半が「ヲタクではない」ことを考えれば、こういう「ヲタク色がカケラもないコミケ紹介」の方が、むしろ適切ではないかと。「ありがちな誤解」と「不適切な表現」があるのは事実だけど、「良く知らない世界」について取材して記事書いた結果として多少そーゆー部分が出たところで、別に記事書いた記者が無能だとは思わない。とはいえ、有能だとも思わないけどね(苦笑)。
 
 私が注目するのは、記事全体のトーン。よ~く読むと、この記事は「同人誌って儲かるんじゃないか」って話に始まり、「漫画家転向など考えても無駄である」って話に終わっている。だからアレは儲けようと思ったら…って話は先日やったけど、実はソコすら重要じゃない。「同人誌・即売会に対する、最初のイメージ」と「取材してわかった、それらの実態」との間にあるギャップが面白い。私はコミケの実態には比較的詳しいので、最初のイメージの方がより興味深いんだけどね。
 
 この記事にある「最初のイメージ」を分析してみると、こうなる。まず、わかりやすいのが「同人誌は儲かる」だ。さらに、サークル側の対応が丁寧で原則取材に応じてくれるって話を多少の驚きと共に書いているので、その逆になる「アングラ臭が強い」ってイメージも持っていたと推定できる。アマチュア色全開ってくだりからは、「金儲けに徹するという意味でのプロ色が強い」というイメージを読み取れるような。つまり…あえて言ってしまおう。「風俗関連の店」とか、「エロ専門の本屋」みたいなモノじゃないか…ってイメージを持っていた可能性が高い。
 
 ただまあ、コレはわかる。内外タイムスがどーゆー新聞かを考えれば、主な読者層に「コミケってどんなトコロだと思いますか?」って聞けば、こんなイメージを抱くのが普通ではないかと。エロが絡んでいるのは間違いないし、他に類似するモノ知らないだろうし。ただまあ、こういうイメージは内外タイムスの読者だけじゃなく、「コミケなんてまるで関係がない」人間にある程度共通するイメージって気もするけれど。
 
 実態としてのコミケは…ものすげー独特の存在なので、たとえが難しいなあ。一番雰囲気が近いのは、実は「中学・高校の文化祭」かもしれない。大学の学祭だとむしろズレる。あーゆーノリのイベントをいい年齢になってもずっと続け、売っているモノは年齢相応にエロ系が多いって感じかなあ。「客に当事者意識が強い」(高校の文化祭なんて、客の大半は運動部・帰宅部系の生徒だ)とか、「売れる努力をするべきかどうか」(「ウケる」内容にすべきか「真面目な活動報告」にすべきか、ケンカしたことありませんか?)なんて話は、まさに文化祭っぽいわけで。
 
 実態をよく知らない人間が、色々的外れなイメージを抱くのは当然だ。そのイメージが「失礼な」方向に的外れってコトも多いだろう。私が思うに、それにイチイチ文句を言っても意味がない。ただまあ、実態を知る機会があったらヘンな誤解は解消して欲しいってだけ。その意味では、この記事はそこそこ上手くまとめてあるんじゃないかな。正直、勉強になりました。プロの記者の文章なんだから、当然なのかも知れないけれど。
 
 もっとも、コレは記者の手腕だけの問題じゃないと思う。コミケって、主催者側から「取材を受ける時は、一般人にヘンな誤解されないようにしろ!」って注意が飛んでいるからね。いわゆる「客」に該当する層に対してこんなコト言っているイベントってのは、そう多くないと思うな。特に古株のヲタクは「迂闊にマスコミ連中の予断通りのコメント出すと、どーなるのか」を覚えている奴が多いので、みんなそれに従っているわけです。
 
 総合的に言ったら、私はこの記事に高い評価は付けない。まず、ちょっとした誤解を解消できてない。ただ、これは「そーゆー誤解も仕方ないよね」ってレベル。あと、「コミケの魅力」があまり書けていない。あの記事だけ読んで「何故あんな大人数が押し寄せるのか」が理解できるとは…その辺についてもう少し説明があっても良かったと思う。読者が共感できるかどうかはともかく、「人気の理由」を説明してもらった方が、読者にとって親切でしょ。ただ、まとまりはいいし、「読者が抱きそうなイメージ」と「実態」の違いをさらっと説明できてはいる。そこは評価するべきでは。
 
 コミケに対する報道は、もう少し大々的にした方がいいと思う。別に宣伝して欲しいからではない。あの時期フジテレビ本社に遊びに行くことが何を意味するのか、よくわかってねえ奴がいっぱいいるから。我々ヲタクが「ビッグサイト付近で行われる花火大会」(コミケとかち合うと大混雑する)の日程を気にする程度には、気を遣ってもらいたいんだよ。その方がお互いのためだと思うし。まあこれは半分冗談としても、「コミケってこんなトコロ」ってイメージは豊富に持っておいて悪いコトじゃないと思う。そうなれば、コミケ初心者のマナー(毎度問題にされる)が多少なりとも向上するんじゃないかなあ…
 
 ちなみに、この記者が取材したのは2日目の「東方」系。うわ、あんな地獄に足踏み入れたのか…このジャンルはどうも「想定以上にコミケ初心者が押し寄せた」らしく、ものすげー混乱していた。その近くにある同人音楽CDを物色しようと考えていたので、私も間違って足踏み入れちゃったんだよね。迷惑をとっくに通り越し、身の危険を感じるレベルでした。ここで「無意味な足止め」喰らったのが私の買い物(ここだけこの色。理由はわかるでしょ)に色々と…ブツブツ。

8月30日2009/08/31 01:11

 スペースシャトル打ち上げのニュースが届いた。それを読んでいるうち、「そーいやあ、スペースシャトルについてもう少し語っておきたいなあ」って気分になったので、私なりに語ってみよう。あんまり役に立つ話は語れないと思うけど。
 
 スペースシャトルが傑作か駄作かと聞かれたら、私としては駄作と認定するしかない。理由は単純。「開発の目的をロクに達成できてない」から。この機体が成し遂げた業績は決して軽くはないけれど、それらは全て「開発の目的」の範囲内であり、ある意味「達成してくれなきゃ困る」レベルの話。本来はもっともっと活躍しなくてはイケナイ。
 
 もっとも…これは「シャトルを作った技術者が悪い」って話とは言えない。私が思うに、スペースシャトルが駄作になっちゃったのは、「そもそもの開発目標が欲張りすぎ」だったからではないかと。今から思えば、「年間20回は打ち上げる」「米国のロケット打ち上げの全てを担当する」「宇宙開発だけでなく、軍用としても使う」なんて話は、無茶苦茶だからなあ。
 
 普通、こういう機体は開発目的を達成するために設計・製造される。そのため、無茶な要求を満たそうとして全体がワケわからなくなった…なんてコトも多い。シャトルも当然「そんな部分」を引きずっている。その代表が翼だ。あれは「打ち上げの際は無駄な質量、宇宙空間ではあっても無くてもどーでもいい」ものである。帰還の際に便利なのは事実だけど、別に必須の品ではない。普通に考えれば、メリットよりもデメリットの方が大きいはずである。
 
 にもかかわらず、何でシャトルには翼があるのか?実はアレ、「軍事目的で使うから」である。シャトル開発当時、「ソ連の人工衛星をシャトルでかっぱらってくる」ってアイデアを真剣に考えていたからなのだ。普通の宇宙飛行なら、帰還時に突入軌道を選ぶので、翼が無くても「アサッテのトコロに降りちゃいました」なんてコトは起きにくい。でも、低い高度を飛んでいる軍事衛星をかっぱらおうとしたら、軌道突入を選べない場合が想定される。その結果「モスクワに着地しました」じゃあ、意味がない。だから翼を付けたのだ。地上攻撃衛星やキラー衛星(敵の人工衛星を攻撃するモノ)がまことしとやかに語られていた(注:今現在公式には、まだこんなものは存在しない)時代だからねえ。
 
 今から思えば、シャトルの設計がワケわかんなくなった最大の元凶は、「とにかく全ての用途に対応する」って部分ではないかと。フツーの人工衛星打ち上げ・ドデカイ人工衛星の打ち上げ・有人飛行・各種軍事目的の全てに対応しようなんてのは、明らかにムシが良すぎた。クルマで言えば、「F1マシンと戦車と商用トラックと買い物用の足を1台のクルマで賄え」と言われたようなモノだ。この場合、砲塔は戦車として使う以外の局面では「思いっきり邪魔」だけど、同じようなモノとして翼が付いている。
 
 何でこんな要求がまかり通ったのか?これもわかりやすい。開発当時、ロケットってのは「使い捨て」が当たり前だった。これを再利用可能なモノに変更すれば、多少贅沢なモノ作ってもコスト的に見合うはず…って思い込みがあったのだ。実際は…いくら使い回しできたとしても、つまらん人工衛星1個打ち上げるたびに「人間打ち上げレベルの安全性確保」なんてやってらんない、それぐらいだったら使い捨ての方が安い…となったわけだけど。これは「もったいない」が必ずしも正しくない例かもね(苦笑)。
 
 「気軽に打ち上げられる使い捨て」と「再利用できるけど、毎回人間打ち上げレベルの安全管理」のどちらが良いのかは、今の目から見れば一目瞭然である。でも、当時の人間はそう考えなかった…ワケでもない。ソ連はシャトルを「利点は認めるけど、全体としてはアホくさい」と考えていたフシがある。ソ連版のシャトル「ブラン」は、実はほぼ純粋に軍事用途(人工衛星かっぱらい)に使うことを考えて作られたらしいって話があるくらいで。ついでに言えば、スペースシャトルは「有人じゃないと飛べない」のに対し、こちらは無人飛行が可能になっていた。いずれにせよ1回飛ばしただけで見切り付けられたけど。「どうもアホくさそうだ」とわかっていながら真似しちゃうってのが、当時の「軍事大国ソ連」の間が抜けていた部分だろうな。
 
 それともう1つ重要だと思われるのが、米国ってやっぱり「人工衛星打ち上げも、人間の操縦でやりたい」って意識が強いんだろうなってトコロか。ロボットのような「人間じゃないモノ」への恐怖は日本人より西洋人の方が強いとされているけど、この背景にはキリスト教がある。そんでもって、米国のプロテスタントって実は「原理主義的な色が濃い」ものだから、「自動機械なんぞに任せたくない」って思いはより強いんだろうな。また、鉄道より自家用車を好む国民性なんかも根底にあるのでは。
 
 米国の「人間を、宇宙飛行士の操縦技術を信じる」姿勢ってのは、時々「人間を信じてない」ソ連・ロシアの姿勢と対比される。ソ連・ロシアの宇宙船は「無人飛行が原則であり、無人でできないことは有人でもできない」のが原則で、柔軟性に欠ける(最近は多少変わってきたようだけど)ところがある。この姿勢は「月へのレース」で米国が勝利した大きな要因と言われているんだけど、スペースシャトルでは思いっきり裏目に出たのかも。
 
 それにしても、もう少し用途を絞ってだなあ…と言うのは簡単だけど、当時のNASAはそうもいかなかったんだろうな。なにせ「アポロ計画の次」だもの。変にショボい計画を出せば、失望されたあげく「予算あげない」と言われかねない。そんなこんなで、どこかで「地道な積み重ねよりもデカい飛躍」だと考えちゃったんだろうな。技術的には勝っているはず(これは実はソ連側も認めていた)なのに、「最初の人工衛星」も「最初の有人宇宙飛行」も負けたという悔しさから月着陸を成し遂げたけど、その代償として「着実な一歩の大切さ」を忘れることになってしまった…ってのは、言い過ぎかな。
 
 スペースシャトルの「罪」としてわかりやすいのは「二度の大事故」だけど、もう1つ「とてつもない罪」があるってのが私の意見。「スカイラブ墜落」だ。米国が打ち上げた巨大宇宙実験室「スカイラブ」は、本来スペースシャトルを使って機材や人間を送り込んで…って構想になっていた。ところが、スペースシャトルの開発が難航した上、予想外に地球大気が膨らんだ結果、「このままでは地上に落っこちちゃうんだけど、軌道修正どころかドコに落ちるのかさえ制御不能」って事態に陥った。スペースシャトルが順調に完成していれば問題にはならなかったはずだし、シャトル開発を優先するあまり他のロケットをないがしろにしていたツケがこんな形で出たわけだ。これは幸い大惨事を引き起こさなかったけど、「ニューヨークに落っこちる」「モスクワや北京を直撃し、核戦争が始まる」なんてコトになっても文句が言えなかった…ってことを考えれば、NASAがやらかした最大の失敗の1つではないかと。これも間接的にはスペースシャトルの責任だと思うな。
 
 構造面で言えば、何と言っても「最初から液体水素エンジン使う」のが…宇宙空間では効率良いけど、重力と空気抵抗がある地上じゃ使いにくいだけって話があるからなあ。確かに、「1段目と2段目以降で燃料変える」なんてのは、開発が大変だ。アポロ計画ではこれやったけど。それにしても、ブランみたいに「1段目は別のロケットに担当させる」ってやり方にすれば良かったような気がする。性能は良いんだけどねえ…ちなみに、当初の予定では「新型ロケットで使用する」予定だったけど。製造費用の関係からか別のエンジン(これまた液体水素エンジンだけど)に差し替えられたようだ。
 
 ちなみに、シャトルのメインエンジンに関しては、性能とは別の「罪」がある。あまりにも頑張ったエンジンを造った(造る必要があった)おかげか、その後のエンジン開発が滞りまくったのだ。「何度も使う」前提だから、量産がほとんど無いし、改良もあまり進んでない。シャトルに続く米国の宇宙飛行計画「コンステレーション計画」が、「シャトル計画とアポロ計画のツギハギ」っぽいのは、要はNASAには「それしかない」からだ。こうしてみるとシャトルって、宇宙開発計画を飛躍的に推進させるはずだったのに、停滞させたような…あげくロシア製エンジンを輸入して使っている有様だ。
 
 もっとも、シャトルが駄作なのは技術者が悪いからではない。むしろ、「駄作にしかなりようもない要求の中、アノ程度で済んでいる」と評価すべきではないかと。いつまで経っても完成しないとか、まるで使い物にならないとか、「1回飛ばしただけで公園のオブジェ」(ブランはこうなった)とか、「エンジン大爆発してどこぞの大都市に墜落する」とかいう事故を通り越して災害起こすとか、そういう「悲惨なモノ」にはなってない。私が思うに、シャトルってのはそんなレベルのモノであっても不思議じゃないくらい、最初の出発点が間違っていた。そんなものを「論評に値せず」ではなく「駄作」に留めたのは、米国の技術力の高さなんだろうな。ただ、それでも駄作にしかならないんだよね…
 
 スペースシャトルを「駄作だ」と評価することによってわかった「教訓」は2つ。まず、「最初の構想が間違っていれば、どんな良い物を造ってもクズ」ってこと。上からの命令が間違っているので、現場がいくら頑張ってもロクな結果にならない…ってのは、どんな世界でも「良くある話」だね。もう1つは、「大きな飛躍を狙うと、ロクなことはない」ってこと。技術なんてモノは、やはりコツコツと地道に改良を積み重ねてゆく方が勝るのだろう。シャトルはその反面教師として記憶する価値があるだろうな。もっとも、だからってソユーズが今でも宇宙を飛んでるのはどうかって話ではあるけど。
 
 スペースシャトルは駄作だと思う。でも、「偉大なる駄作」ではないかと。駄作だけど偉大、偉大だけど駄作ってモノがこの世にはあるんだよ。実は私、そーゆーモノは嫌いじゃない。ただ駄目なだけとか、ただ素晴らしいだけってモノにはない味があると思うので。シャトルの功績は言うに及ばずだから、ここではあえて「影」中心に語ったけれど、アレは偉大なんだよ。それは忘れちゃいけませんね。
 
 もっとも…日本人である私としてみれば、「退役後はどーすんだ」ってのは気になりますね。日本の有人宇宙飛行って、米国のシャトルが全てだったからなあ…コレも立派な「初期構想の誤り」の1つだと思うけど、どうかね。