9月16日2008/09/17 02:55

 連休中は競馬にも行かず(中山に馬が戻ってきたから、予定してたんだけど)、「ヒト電」原稿第二部の執筆に打ち込んでいた。何となく興が乗ったので。まだ未完成ではあるんだけど、とりあえず「こういうものを書けばいいのかな?」ってところまではいった。
 
 ただまあ、出来上がったのは「当初の予定とはずいぶん違った」モノになった。最初に「原稿書きたいんですが」と言い出した時点、つまり最初期の構想と違うのはもちろんとしても、今月初めに「こうなるのでは…」と想定していたモノとも大きく異なる。本当にコレでいいのか、多少考えてしまうくらい。まあ、とりあえずは「こんなものでどうでしょう?」とコマンド編集部に見てもらう予定ではあるんだけど。
 
 さて、本日の本題に行こう。本日は、あえて「ウォーゲーム水戸黄門仮説に反論を加える」としておこう。ちなみに、「反対する」じゃなくて「反論を加える」です。これ重要ですので。
 
 ウォーゲーム水戸黄門仮説とは?西新宿鮫殿が最近提唱した仮説である。多少私なりに要約して説明すると、「プレイヤーの技量が問われる、ルールがスッキリしたゲーム」より、「なるようにしかならないけど、見所はきちっと表現できてるゲーム」の方が潜在的にウケるのでは…って仮説である。うーむ、ちっとも要約になってないなあ(苦笑)。まあ、正確なところは提唱者のブログ(こちら)を確認して下さい。
 
 「プレイヤーの技量が問われる、ルールがスッキリしたゲーム」というのは、今現在「良いゲームとはどんなゲームか?」という問いかけに対し、良くある解答だと思われる。ただ、こういうゲームは魅力を引き出すのが大変だったりする。はっきり言って、「何をすればいいのかよくわからない」って状態になりがちなんだな。それを見抜くのがプレイヤーの戦略眼(平たく言えば技量)であり、「自分のやるべきことを達成し、相手のやるべきことを妨害する」と、ゲームに勝てる。ただ、ソコに至るまでが大変だったりするわけだ。
 
 これに対し、「なるようにしかならないけど、見所はきちっと表現できてるゲーム」というのは、ルールがプレイをアシストする効果が高い。これは親切と言えば親切なんだけど、おかげで「道をそれる」ことが難しくなりがち。結果として「なるようにしかならない」って結論が出る。ただし、プレイ方向が強力にアシストされているので、「ここがこの戦いの見所だ!」ってモノをきちっと描きやすい。
 
 西新宿鮫殿の仮説は、「実は後者の方が潜在的ニーズがある」と主張されているわけだ。従来、我々ゲーマーは前者が理想だと教えられ、何となくそれを信じてきたような気がするけど、実はそーゆーものを求めている人間は案外少ないのでは?むしろ、後者を求める人間…すなわち、「ゲームそのものとしての面白さ」より、「演出の面白さ」を求める人間が多いのでは?ってことになる…んじゃないかな。
 
 正直言おう。結論については、私もほぼ同意見だ。「最後に水戸黄門が印籠出して、悪人がへへぇーと平伏して終わり」といった、いわゆるお約束ごとがあってこそウォーゲームだという意見は根強い…というより、「それこそウォーゲーム」だと思っている人間は多数いると思う。むしろ主流派はそちらではないか…という意見は納得がいくし、私もそう思う。
 
 ただ…これって「それを言っちゃおしめえよ!」(by車寅次郎)って意見なんじゃ…ってのが私の「反論」。あくまで私が思うにだけど、この意見を認めて肯定的方向に拡大してゆくのは、マジに「業界の死」を意味するような気がするんだな。現状は現状として認めるのはいい。おおむね現状のまま留まるのも問題はない。ただ、「そういう人間を強くアテこんだ方向に話を持ってゆくのは、危険じゃないか?」ってことだね。
 
 何故ウォーゲームを好むのか?という問いに対する答えは、まあ色々あって当然だと思う。私自身、「技量を問われるモノを好むのか」と聞かれると、少し考えてしまうし。西新宿鮫殿の意見ってのは、実はこの問いかけが出発点ではないだろうか。この点については私本人がつついて調べたワケじゃない(機会設けてつついてみたいけど)ので、断言は出来ないけど。この問いに対する解答として、「戦略眼が問われるから」(なるようにしかならないのはイヤ)って趣旨を答える奴と「名場面を再現できる(体感できる)から」(なるようにしかならないのはかまわない)って趣旨を答える奴のどちらが多いのか?後者ではないか?ってことだね。
 
 私は、この図式には「ちょっとした欠陥」があると考える。それは、「ウォーゲーム」って形態が大前提となっていることだ。ぶっちゃけて言おう。「なるようにしかならない、でも史実の名場面をドラマチックに再現できる」ものを好む人間が、ゲームって形態のモノを選ぶ必然性はあるのか?私はないと思う。そのため、この方向をアテこんで話を拡大してゆくことは、最終的には「ゲームという形態を捨てた何か」を創造するって話になることも含めて考えるべきでは?つまり、「ウォーゲーマーにとって都合の悪いパラダイムシフト」を見落としているか軽視しているのでは…ってことだ。
 
 こうしたパラダイムシフトは、黙っていてもいずれ発生するのかも知れない。メカミリ系だか歴史系だか知らないけど、「似てるモノに興味を持っているけど、ゲーマーじゃない」人間が何か開発するかもしれないわけで。そのため、私は「ウォーゲームって趣味は、いずれプレイヤーが激減して滅びる」可能性を否定できない。ただでさえ小さい今の業界で、半数以上が「ゲームなんかより、コッチの方が面白い」って別のモノに流れたらどうする?正直言って、私は「自分が10年後もゲーマーか?」って聞かれたら、五分五分だと答える。これは、「今現在、私がウォーゲームに向けている情熱が薄れるから」ではない!「今現在、私がウォーゲームって形で満足させている情熱を、別手段でより満足させられるようになるかもしれないから」である。
 
 そんな手段が考えられるのかって?まあ、理論上は。このご時世だし、PC・IT系の何かだろうね。「PCの思考ルーチンなんて…」って意見は、残念ながら的外れ。ゲームじゃないんだから、思考ルーチンの弱さは問題にならない。たとえば、「電子戦況図」なんてどうだ?両軍の部隊が、史実の動きに従って地図上を動き回る。地図の縮尺を変えれば、表示される部隊規模も変わる。もちろん、最小縮尺なら人間1人、車両1両の動きもバッチリわかる(戦闘データは多分結果からのでっち上げだが)。時間の進み方も、リアルタイムから1秒=1時間まである程度自在に変えられる。これなら下手な戦争映画より面白いし、歴史的興味も大いに満たしてくれる。これと「なるようにしかならないけど、見所は押さえてあるゲーム」って、ドコが違うって?
 
 まあ、この電子戦況図が登場するのは、まだちょっと先だと思う。データ量がものすげーから。PCソフトや供給メディアがそれだけのデータ量を扱うことは簡単でも、データを入力するのが大変そうだ。何とかして半自動化する必要はあるだろうね。ただまあ、10年後ぐらいには登場する可能性はある。その他、現在のオンライン系ゲームの考えを応用して…って路線で、「なるようにしかならないけど…(以下略)」って考えに沿った情熱を満足させる品が登場するかも。
 
 これらと比べて、ウォーゲームの「良いところ」は何か?駒を自分で動かせる、作戦を自分で考える、対戦相手がいる…ってところか。しかし、これはよく考えてみると「弱点」と考えることも可能だ。駒を動かさなくて良い、作戦なんて考えなくて良い、対戦相手なんて不要だ、だからこそ面白い!って主張されたら、どうする?
 
 ゲームって手法は、この電子戦況図と比べると「能動的な」趣味である。プレイヤーが働きかけを行う余地ってのが重要だ。これに対し、電子戦況図や小説とか映画なんてのは「受動的な」ものだろう。楽しんでる(観ている・読んでいる)人間の意志・能力が関与する余地が小さい。まあ、ゼロではないんだろうけど。私なりに水戸黄門仮説を大幅に加工させてもらうと、「ゲーマーは能動的に楽しんでる奴と受動的に楽しんでる奴がいて、実は受動的な奴が多い」となる。だったら、「受動的な奴はゲームなんて手法より、別にいい手法があればソッチに飛びつく」ってことになりそうな。
 
 まあ、これは言い過ぎだとも思う。西新宿鮫殿の仮説で言う「実は多数派」にしたって、ゲームって枠から飛び出るほど受動的なモノは、「行き過ぎ」と感じるかも知れないわけで。ただまあ、たまーに「これをゲームと呼んでイイのかぁ?」って言いたくなるほど「なるようにしかならない」ゲームが見受けられるこの世界において、「実はゲームである必然性ないんじゃない?」って意見が出てくる危険性は、あると思うんだけどなあ。
 
 我々現役ゲーマーとしては、こういった「パラダイムシフトに繋がりかねないアイデア」を検討している余裕はあるのか?むしろだなあ、少しでも多くのゲーマーに「ソコまで受動的になっちゃうのは、ちょっと…」と言わせるよう、努力するべきじゃないのかなあ。そのために必要なのは、やはり「能動的な部分の強調」じゃないかと。どちらかといえば受動的な、なるようにしかならないゲームを否定しろとはこの際言わない。ただ、そういうゲームであっても「プレイヤーの能動的努力」によってどうこう…って部分を少しでも多く盛り込むようにしてもらいたいし、批判・批評・意見もそういう面を積極的に強調すべきでは?
 
 もっとも、私がこう思うのも、「私自身の好み」が影響してるからだろうな。私は「勝ち方を見つける過程を楽しむ」ってタイプだから。勝敗にはこだわる(その意味では、なるようにしかならないのはあまり…)けど、「どーやったら勝てるのかな、こーすりゃいいのかな、あーしたらどうだろう…」って考えることそのものが楽しいので、負ける時は平然と負ける。大切なことは「何度負けてもいい、最後は勝つ」だからね。勝敗にこだわる割には弱いから、こんな性格に行き着いただけって話はあるけど。それはともかく、私は「ゲームって枠組み」を否定されると、困ってしまう人である。まあ、少なくとも今は。それゆえ、ここをブチ壊しかねない意見には、やや過剰反応するんだろうな。
 
 つーわけで、西新宿鮫殿には、機会を設けて「その考えは、業界の死に至る考えではないか?」って疑問をぶつけてみようかと。仮説を修正してくるのか、それとも私の意見が反論で叩き潰されるのかはともかくだ。おそらく後者だとは思うけど、それはそれで楽しみだとしておこう。ワクワク…

コメント

_ 西新宿鮫 ― 2008/09/18 01:33

相変わらず論評に値しない意見を述べておられるのは非常に残念ですが、ご要望にお答えして今回だけはお付き合いしてあげましょう。私は「業界の死に至る考え」だと感づいているからこそ、「仮説」と銘打っているわけですよ。仮説が証明されることを私が最も恐れているとご理解いただけないのは本当に心外です。普段は傲慢にも「ビーフカレー作戦」とか「ミルフィーユ戦法」とか断定的に言っている人間が、今回はあえて「仮説」と言っているわけです。能動的/受動的の物差しで計るのは完全に勘違いで、なるようにしかならないゲームにも能動的に取り組むことで満足感が得られる側面があるわけです。正直言うと、私にもそういう嗜好が少なからずあるから分かるんです。F男殿も「能動的努力」を強調されるなら、ヒトラー電撃戦の作戦研究の原稿では明確な指針を示していただきたい。プランサンセットに書かれたような抽象論に逃げ込む記事を書かれるようであれば、私は失望します。厳しいことを申し上げるようで恐縮ですが、口先だけの言い訳は聴きたくありません。ブログでの反論は無用。コマンドの原稿でF男流のウォーゲーム界への貢献を示してくださることを期待してます。

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