2月26日2007/02/27 01:08

 以前やった「ゲームのルール解釈論」が案外好評だった?のを受け、またもこのネタでいこう。今回は、その時のコメントで出てきた「結果の妥当性について」語ります。自分で「真剣に考えてみる価値がある」などとレスつけた以上、責任は取らねば。
 
 具体的なタイトル出さずに話を進めた関係上、前回はあえて触れなかったけど、ゲームのルールを解釈する際に「結果の妥当性」ってのは大事である。ゲームとして楽しむのが大前提である以上、そこからして成立しなくなるような「解釈」ってのは問題だらけだ。仮にそのような解釈が可能だとしても、全力で避けるべきじゃないかと。これはごく当然のことですね。
 
 ここまではいい。けど、じゃあ「妥当な結果」って何なの?を具体的に考えてゆくと、実にややこしい問題に突き当たる。深入りするとロクなことないとわかっているんだけど、まあ一応は紹介します。シャレにならんツッコミを受けない程度に。
 
 シミュレイションゲームのルール解釈における「妥当な結果」を列挙してみると、こんな感じになると思う。
 ・史実そのものの再現性(史実と同じコトが起きるかどうか)
 ・史実の雰囲気の再現性(当時の戦いらしさを感じることができるか)
 ・デザイナーの解釈との一致(デザイナーと同じルールでプレイできているか)
 ・プレイの一般性(皆と同じルールでプレイできているか)
 ・面白さや競技性(面白いプレイができるか、バランス良いプレイができるか)
 
 ここまで書けば、わかる人は私が「どんな領域」に踏み込もうとしてるかわかる。けど、わからない人も一応いるとは思うので、ひととおり語ってみることにしましょう。なお、深入りするつもりはまるでないと言っておく。手遅れかも知れないけど。
 
 史実そのものの再現性は、重要なことですね。シミュレイションゲームは何かを「模倣」している遊びだから、模倣すべき史実と同じコトが発生しないってのは、それなりにマズい。特にどちらかのプレイヤーが「史実で起きたことを起こそうと努力している」または「史実で起きたことが起きてもかまわない」ってプレイをしてるのに、全く史実通りになりようがないような場合、その解釈には問題があるような。「この解釈に従うと、独軍はソ連を奇襲できない」とか、「連合軍はノルマンジー海岸に一切上陸できない」なんて解釈は、即座に「解釈の方が間違っている」で片付けて良い気がする。
 
 ただ…これにこだわりすぎると、失うモノもある。結局のトコロ、史実ってのは「調べりゃわかる」のである。わかっていれば対策も打てるし、仮にそうでなくとも「驚き」はない。解釈の結果「連合軍は1944年6月にノルマンジー海岸に必ず上陸してくる」なんて結論になる場合、「それはそれで問題じゃないか?」って意見が成立すると思う。
 
 そこで出てくる見解が、史実そのものの再現より、雰囲気の再現に重きを置く意見だ。「連合軍が来るのは間違いないけど、いつドコに来るのかまではわからない」といった独軍の苦悩とか、「独軍戦車が派手に暴れ回って、少数でも善戦した」とかいった、「当時の戦いに対する我々のイメージ」を再現することに重きを置く。
 
 もちろん、この解釈にも問題点はある。先ほど史実は調べりゃわかると言ったけど、それはちゃんと調べたらの話。「いい加減な資料」に基づいてズレたイメージを持っている場合、そんなものに従うのが正しいかどうか…それに、史実ってのは大抵の場合「ある程度の必然性が重なった結果」である。それしかやりようがないってのは問題だとしても、安易に「作戦変更し放題」ってのは何かが違うでしょ。
 
 そうした再現性うんぬんなんて、ごく普通のゲーマーが判断するのは荷が重い。そーゆーものはデザイナーが盛り込もうとしたモノであって、プレイヤーはその解釈に従っていけば良いはずだ。うん。多分その通り。理想論を言えばこれに落ち着くような気もする。
 
 けど、これはあくまで理想論。いつぞやのGJ誌に書いてあったように、「デザイナーだからって詳細なルールを覚えてるワケじゃない」のだ。これはゲームデザインに関わった全ての人(デベロッパーとか、ルールブックの文章書いた奴とか…)に言えることでしょ。そもそも、ルールにそんな穴があったかどうか、認識してるかどうかも疑わしい。当たり前だけど、デザイナーといえど神ではないのだ。トンチンカンなことぬかす可能性は、結構高い気がする。
 
 それでも、これを1つの「理想論」とするのは、ゲームデザイナーが「権威的存在」だからだ。ルール解釈ってのは、極端な話「どっちでもいいんだけど、どっちなのか決めて欲しい」ってなレベルの争いであることが多い。こういうレベルの争いになったとき、「権威を盲信し、その言に従う」のは解決手段として有効じゃないかな。いつでも何でもそうやって物事を解決ってのはちょっとどころじゃなく考え物だけど、その有効性はある程度認めるべきかと。
 
 しかしまあ、デザイナーの見解なんて簡単に聞けるものではない。それに、おかしな見解にしがみついてデベロッパーとケンカしてることすらあり得る。大切なのはそれよりも、「対戦するたびルール解釈で揉めない」ことではないか。見知らぬ新鮮な対戦者と戦うという「喜ばしい場」において、果てしないルール解釈なんてやりたくないからね。そう考えると、「世間一般のプレイ」なるものに権威を置きたくなる。
 
 この解釈も妥当と言えば妥当だ。問題は、「一般的な解釈って何?」ってことを考えると…ってところでしょ。私の場合、「戦国大名」再版作業でこれがどれだけアテにならんものか、思い知らされた。何しろ「多数決を取れるような状態に持ってゆくまでが大変」だったんだから。それぐらい見解は分裂してた。おまけに「一般的なプレイはルール解釈ミスとしか思えない」って記述が山ほど発見されて…まあ、今更細かくは語りたくないけどさあ。
 
 そーゆー面倒なこと考えずに、面白く・バランス良くプレイできればいいんだよ。どーせ仲間内でしかプレイしないんだから。そう言うのは楽だし、それもまた正しい見解だと思う。けど、コレを全面的に認めるのは抵抗があるかなあ。こう考えて解釈論を展開した場合が、最も「ローカルルール」蔓延を産むことになるから。「何を面白いと考えるか」は個人の主観の問題だから解釈が割れそうだし、プレイバランスにしたって「特定のプレイヤー同士」で取れていたって、それが皆に通用するとは限らないし。その解釈を広めるよう活動してくれれば問題は軽減されると思うけど、それは「果てしない解釈論争に、積極的にクビ突っ込め」ってけしかけているのと同義語だ。オススメはしたくないね。
 
 こうして見てゆくと、「妥当な結果」とは、何をどの程度重視するのかという「立場」によって微妙に変化しうることがわかる。そうした立場や、その解釈に至った理屈を明らかにしないで妥当な結果なるものを語っても、下手すれば論争を拡大するだけだ。妥当な結果を追求するのは大切だと思うけど、それだけで問題が片付くような性質のモノじゃあないでしょ。
 
 じゃあ、ゲーマーは常に「立場」やら「解釈の理屈」を明らかにしなきゃいけないのか?うん。その通り。ただし、ルール解釈論争を本気でやるつもりなら。そんなことにクビ突っ込まなくてもゲーマーはプレイできるし、ゲームデザインやルール翻訳すら可能かも知れない。誰もが司法試験に合格するレベルの法律知識を持ってるワケじゃないけど、普通に社会生活を送れるように。ただまあ、世間での「法廷」にあたる場が必要になることはある。そこに立つ覚悟がある以上、「司法試験合格できる程度の法律知識」を持ってないと困るんじゃないの?ってこと(注:私は裁判員制度反対主義者である)だ。
 
 誤解して欲しくないんだけど、私はルール解釈論争をやるつもりはない。可能な限り逃げ回るつもりである。ただ、何故そうするのかを「面倒だから」だけで片付けていては、進歩がないのも事実。そこで、「本気でルール解釈論争やるんなら、せめてこれぐらいはクリアしてね」ってハードルを示し、自分はそれを跳ぶ資格がないから…って方向で逃げをうってるだけ。まあ、過去のルール解釈論争を見て、「せめてこれぐらいは押さえて欲しいかと…」と思ったことは否定しない。
 
 こういう話をする以前に、ゲームのルールがちゃんとしていればいいんだって話はある。そうなりゃ、少なくとも解釈論争からは逃れることができる。ここに書いたことは実は「ルール批評」にもある程度当てはまる(特に、「シミュレイション」ゲームかシミュレイション「ゲーム」か、って論争)って話があるんだけど、それとこれとは別(本格的な批評は解釈論争以上にやる気ない)だと思うなあ。ま、私の「理想」はデザイナー解釈優先と示してあるので、世間のデザイナーの方々には頑張ってもらいましょう。なんか、多数の知人を敵に回したような気もするけど(笑)。